逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

脳死判定では高等生物意外はみんな死んでいる

2009年08月04日 | 臓器移植法

『世界基準の胡散臭さ』

世界で広く行われているのだから『グローバル・スタンダード 』は絶対に正しく、未だ実施していない日本は遅れている、との論が『誠』であるかの如き(置かれている条件を無視した)議論がまかり通っている。

今国会では、児童ポルノの単純所持を禁止していないのは日本だけ(日本は遅れている)なる珍論が展開されているが、日本は、イスラム諸国を除けば先進国唯一の大人のポルノ禁止国なのです。
この議論は、先ずハードポルノを解禁してからにして欲しい。
順番が完全に間違っているばかりでなく『グローバル・スタンダード』の意味さえ理解していない。


『脳死=人格の死』は、みんなが認めている。

確かにこの部分だけなら正しい。
しかし今回のグローバル・スタンダードを標榜する(自民党議員が強引に成立させた)臓器法案のような『脳死=人の死』には絶対に成りません。
『脳死は人格の死』である。
だから、『脳死=人の死』で有るとする事は何ともおぞましい非科学的な飛躍がある。
何故なら、この二つの等式、『脳死=人格の死』→『脳死=人の死』が成り立つなら自動的に『人格の死=人の死』になる。

この二つの等式が、同じ様に原則で有るとすれば、其れは多くの場合には植物状態や無脳症児には人格が有るとも思えないので、将来的にこれ等が脳死患者と同じ『生きている死者?』に分類されかねないですよ。


『高等生物意外はみんな死んでいるのか』

植物状態とは脳幹以外の脳の大部分の機能が失われた状態ですが、現在は勿論脳死とは判定されないので絶対に死者とは看做されていない。
ただし大脳は人格が宿る場所である。
脳死=人の死論者達は『脳死では人格が消滅しているから死んでいる』と主張するなら、植物人間や無脳症児は哺乳類だけではなく爬虫類程度の人間と比較して下等な生命にもある『脳幹』だけが機能しているのです。(爬虫類よりも単純な生命は脳幹すらない)
ですから彼等『脳死=人の死』論者の主張に矛盾が生まれる。
今までの生死の判断の既成事実は(考える為の)大脳皮質ではなく(生きる為の)『脳幹』が生きているか如何かだった。
昔の技術水準では脳幹が生きている事が『生き続ける為』の絶対条件(最低条件)だったので植物状態が医療の限界でもあった。
ところが蘇生術などの医療技術が進歩して脳幹の機能が失われても、機械で生き続ける『脳死状態』が可能になる。
しかし回復させるだけの技術水準には程遠い。
医療の進歩とその限界によって『脳死患者』が生まれた。


『生死の判定に必要なのは何か』

生きているか死んでいるかの判定では、当たり前ですが『生きているか、それとも死んでいるか』だけを判定すれば良いのです。
『考えているか。?人格があるか。?それとも其れ等が無いのか?』の判断を『その生命の生きているか如何か?』の判定に組み入れるべきでは有りません。
自己や人格の有無が今の様な『生死の判断』の基準の一つ成ったのは、臓器移植が可能になって以降のことで、それ以前の移植技術が無かった植物人間時代には『人格や自己統一性』などが議論される事は、そもそも考える事さえしていない。
移植を考えるから『生きている臓器』の必要性が生まれ、其処から『脳死は人の死』『人格の死は人の死』の考え(方法)を、誰か知恵のある人が新しく考え付いたのでしょう。
しかし恐ろしい考え方ですね。

極論すればA法案の考え方は、
人格が崩壊した重症の痴呆や精神病患者までが『生きている資格が無い』としたナチスの優性論と紙一重の際どい考え方であろうと思うのです。


『議論の摩り替え』

そもそも『脳機能の停止=人の死』だなどいう等式は成り立つはずもない。

脳死議論の根幹部分は、『脳死は人の死か?』ではなく、『脳死患者の殺害は殺人罪の適用から除外すべきか?』と考えるべきである。

仮に脳機能の停止が必然的に人の死をもたらすと断定できたとしても、『脳死』→『人の死』とはなるが、間違っても『脳死』=『人の死』にならない事は科学的うんぬん以前に文法的にも明らかです。
脳死論議には極端な『論理の飛躍』と『思考の混乱』が見られる。

何故脳幹以外の脳機能の停止状態の植物人間以外の、脳死という概念が生まれたのか。?
『脳死』は、移植技術の進歩により『脳死移植用の生きた臓器の必要性』が生んだもので、その逆ではありません。
経済学的には、『臓器移植』(消費側)の要求が先ず最初にあって、其の為の『生きた死人』(脳死患者)の需要(生産側)が生まれたのです。

ですから脳死問題とは、『脳死患者の殺害は殺人罪の適用から除外すべきか?』という問題設定の方が本来は正しいのです。
極論すれば、『医師と家族共し、かつ其れを社会が認めれば脳死患者に対する殺人は合法化されるのか』に、議論は全て収斂されてしまうのです。


『脳死者の存在で証明さえた意外な事実』

其れ以前では、生命維持の為には最も大事で有ると考えられていた脳幹部分の役目が、実は『脳幹』が働かなくても『命』の持続にとってそれ程決定的ではなく、大事でなくなった事です。

植物人間が『死者』と認定されないのは『脳死患者』と違い、脳幹が機能しているからですが、脳死者の存在自体が『脳幹』の大事さを否定しています。
現代の医療技術の進歩は、脳幹の役目の大部分を機械で代行できるまでに進化してしまった。

『脳死=人の死』論者達が、脳死の人の死の正当性を主張すればするほど、その論の正当性が高まれば高まるほど、脳の大部分が機能せず脳幹だけが正常な植物人間の『人間としての命』は脅かされる結果になる。
植物状態が『生きている』と看做される根拠が崩れるのですよ。
植物人間が死者とはされなかったのか、当たり前ですが生きているからですが、
一見するだけでは外見上同じに見える脳死患者が『生者』ではなく『死者』とされたのは『生きている臓器』の需要が有ったからで、移植を前提としなければ、同じ様に自己同一性が無く、人格が無い植物状態と同じ『生きている』扱いになっていた。
脳死移植が考え出される以前には『脳死患者』は間違いなく『生きていた』のです。


『新しく創られた脳死の概念』

脳の死=死者の考え方は、資本主義社会の『生きている臓器』の移植の需要側と、救命術の進歩で脳死患者を生み出した供給側が有って初めて考え出された、『臓器移植』用に新たに創られて概念です。
仮に脳以外の何かの機能の停止が必然的に人の死をもたらすとしても、誰が此れをもって生きている者を『死者』と認定するあわてモノがこの世に存在するでしょうか。?
そんな慌て者は世界中で一人もいません。
ところが不思議な事に『脳』に関してだけは存在している。
実に不可解だ。


『脳死判定は、何を判定しているのか。?』

実は皆さんは大きな『根本的な勘違い』をしているのです。
『脳死は人の生死の判定』であるとの解釈は実は大きな誤解で、『脳死』は生命としての『生き死に』を判定していないので『人の生死の判定』の事ではない。
『人の生死の判定をするものではない』としたら何で有るのか。?
実は現在行われている『脳死判定』とは、脳の機能の有無を調べて行うものなので、
今の『脳死判定』は人として許されるべきではない『非人道的な』なんともおぞましい優生学的な脳の機能状態の有る無し(優劣)で行う『人の生きる資格の判定』に他ならないのです。

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4 コメント

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脳死=人の死ではではない (農婦)
2009-08-05 18:12:10
すみません.ブログ主さまの記事をはんぶんも読まないで、酔っ払いの私はまたコメントをしてしまいました。アー今私はただ悲しいのです。人は百年も生きられないのにせっかくこの世にセイを与えられた命、本当はもっとみんな穏やかに笑と涙をもって人の生きる道を与えられてきたのに、ちょっとだけの間違いがすさまじい間違いを引き起こしあー。このちょっとだけの間違いに気がつけば、どれだけの、同じ心を持った人間が、ほんとにおんなじ人間が、苦しみの中で死んでゆくこともなかろうになー。
返信する
特殊な一部分と全体との関係 (ブログ主)
2009-08-06 09:50:38
農婦さん、コメント有り難う御座います。

[脳死=人の死}は、
何か大事なものを省略したもので『脳の機能停止』と『死』がイコール(=)で結ばれるとする考え方は粗雑で論理の大きな飛躍が見られる。
『脳死=人の死』論者は、脳死という概念と心臓死という概念が二項対立の様に理解していて『人の死は心臓死か、脳死か』と考えている。
しかしこれは対立概念ではない。
これは『部分と全体』の話なのですね。
もし死者が若くて健康であったなら、銃撃などで頭部だけに打撃を受けると脳死状態が先に来て心臓死が後回しになる逆転現象が起こります。
しかし多くの場合には心臓死が全ての人に訪れて、脳死が先に来るなどは極まれな現象なのです。
心臓死の中の『死の三兆候』の二つ、瞳孔の散大固定と呼吸の停止は『脳死』脳死判定の5項目の中の二つと一致するので、
全ての死者は『心臓死』していますし、同時に『脳死』している可能性が高い。
これは死の定義の『心臓死』は『死』全体で、『脳死』は其の一部分である事が判ります。

ですから普通に考えられている、心臓死が起こり同時かその直後に(ごくごく短い時間差で)脳の機能停止(脳死)が起こっているとする考えは間違いの可能性が高いかも知れません。
実際問題、心臓死の患者に対して『五項目の脳死判定』は行えないので、心臓死後に脳死する患者がいないとは言えませんが、心臓死後の脳死の話は考える必要は、ほぼ意味が無いでしょう。

脳死論議とは、極まれに起こる特殊な事例(脳死)を、人々に等しく訪れる『死』の定義で誰でも(脳死患者でも)が最期にはなる『心臓死』ではなく、臓器移植の便宜上、在り得ない誰もがなるとは限らない特殊例にするという原則変更で奇怪千万極まりないな話です。

ただこの脳死移植の話は今までの日本では年間5~6件の特殊例で法案の成果で倍加しても年間10件程度。
一億二千万の人口の日本から見れば問題にも成らない話で(関係者を除けば)大の大人が真面目に論じる話ではありません。
ところが其の関係ない程の例外を人の死の原則とすると自民党議員などが決めたから大問題になっています。

これは例えるなら、戦後民主主義を自虐で有るとする『作る会』の御馬鹿教科書を栃木や愛媛の極一部の県の一部の学校で採用しても日本国全体から見れば何ら問題ではない。
しかし日本最大の自治体の東京都や日本で二番目に人口が多い横浜市が採用するとなると話が全く違ってくるのと似ています。
世の中には『作る会』のお笑い教科書でも極少数なら話のネタに成るが、今度の横浜市の教育委員会のようなことに成ると、途端に全ての日本人の問題と成ります。
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Unknown (Unknown)
2011-05-23 15:57:09
「脳幹だけが機能している生物がいるから、脳死=人の死ではない」というのは違うかと。
「脳幹だけが機能している="生物の"死ではない」なら分かりますが。

脳というのは有機物でできたコンピュータのようなもので、必要不可欠な部品が故障すれば全体の機能が失われます。
例えばコンピュータのCPUが壊れたとして、それの換えが利かないのであれば、それはそのコンピュータの「死」です。
ですが現在では必要とされているCPUやメモリ、記録媒体さえも、初期のコンピュータにはついていませんでした。

先述の理論では「昔はそういうコンピュータもあったから、現在のコンピュータのCPUが壊れても故障ではない」といった意味になります。
ここで論じているのは「人」(例えで言う現在のコンピュータ)が仕様上どうなれば故障するのかであって、仕様が異なる別のものを引き合いに出すべきではないと思うのです。
返信する
何か誤解があるようです (宗純)
2011-05-24 12:43:00
当ブログでは来て頂いている読者の為に良好なブログ環境を維持する目的で、名前もタイトルも無いコメントは不掲載にするローカルルールがあり次回のコメント投稿時には何でも結構ですから、是非とも個人の識別が出来るHNとタイトルの記入を御願い致します。

「脳幹だけが機能している生物がいるから、脳死=人の死ではない」とは誰も主張していないと思いますよ。
もしも、その様に読めたとすれば当方の書き方が悪いのか、読解力に問題が有るかの何れかでしょう。
この記事はシリーズになっており、この記事では主に『人の脳機能の停止=人が死んでいる』とはならないと主張しています。
簡単に言えば幾ら大事な部分であったとしても『部分と全体とは決して「同じ」とはならない』ですね。
しかも今の脳死判定は脳機能の停止の判定であって、本当の意味の脳死判定とはなっていないのです。
その部分の『機能停止』と『死んでいる』とは決して同じ意味ではありません。
例えば足が動かない機能停止状態でも、誰も『足が死んでいる』とは思わない。
足が死んでいる状態とは機能停止ではなくて、血流が止まり足が壊死した状態です。
ですから本当にその部分の死んでいるか生きているかの判定は、今の脳死判定のような仕方では無理があるのですよ。
是非とも血流の有るなしの判定こそが重要なのですが、何故かそれ程困難とも思えない血流検査を絶対に移植学会は行わないのですね。
これでは重度の植物状態で脳が機能不全に陥っている患者を移植用の脳死と扱っている可能性は拭えないのです。
生きているか死んでいるかの判定は純粋に『生きているか死んでいるか』だけに限定して判断するべきではないでしょうか。
命とは部品の寄せ集めの機械のようなものではなくて代謝の動的平衡の意味なのです。半年もすれば分子的に考えれば全く別のものであるのですね。
脳だけが特別なのではなくて、そもそも生き物とは『生きている』ことが重要なのです。

ルドルフ・シェーンハイマー 機械でない生命 
2009年06月24日 | 臓器移植法
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