逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

続、何時までも終わらない『水からの伝言』の不思議

2008年11月18日 | ニセ科学とニセ・ニセ科学批判

本当に『水からの伝言』はニセ科学か?

宗教と科学についての基礎知識ですが、
原始時代に弓矢が発明された当時。弓矢を技術的(科学的)に改良しようとしたグループには獲物という現実の利益が有り、改良をサボり神様への祈りとかまじないとかに頼っていたグループは飢えに苦しんだ。
だから人類は「合理性を尊重する」(宗教より科学を重んじる)という姿勢を身につけてきたとする『弓矢の工夫と狩りの祈り』とのおとぎ話が有る。
しかしこれは科学に対する美しい誤解ですね。




『昔、科学と宗教は分離していなかった』

「弓矢の工夫と狩りの祈り」を科学技術と宗教、或いは物質世界と精神世界とも解釈できるが、
一言で宗教(精神世界)と言っても、低級から高級まで色々。
これを言うと真面目の宗教者には叱られそうですが、科学的な裏付けの無い精神(観念論)世界、例えばオカルトや魔術、占い、迷信、まじない、呪術なんかも低級ですが極初期の宗教の一部と考えられる。

『科学の対極は魔術』はたぶん間違い。

科学と魔術、或いは科学と宗教は対立概念ではなく並立します。
今でこそ魔術と科学は分離していますが、昔はそうではありませんし現実に、占星術から天文学が、錬金術から化学が発展的に分離していった歴史がある。
科学者が魔術師だった時代や、聖職者が科学者や医者だった時代の方が、今のように完全に分離している現在社会よりはるかに長い歴史が有る。



『宗教から生まれた科学』

もともとの原始キリスト教は病気を治す(医学)宗教だったんですよ。
当時コレラやペストが大流行して地中海の交易都市を滅ぼしたりしたが、そのため医学宗教だったキリスト教は世界宗教になれたわけです。
それで今でも世界の各国や日本国内にキリスト教を標榜する医科大学が有るのは元々両者には深い関係が有る為です。
日本でも新興宗教の天理教や世界救世教、世界真光文明教団や崇教真光等は病気を手かざしや祈祷で治すとしている。(殆ど魔術ですね)


『ブッダの真理と科学』

2千数百年前のブッダの見つけた真理は、今でこそ宗教と考えられていますが、当時においては最新の革命的な科学的思考方法だった。
仏像が乗っているハスの花は、実と花が一体となっており仏教思想を体現しているモノと考えられているが其の理由は、ブッダの真理(因果応報)では、原因と結果は別々に存在しているものではなく一つの関連したもので(奇跡の否定)、全ての万物も相互に関連している
全てのものは時間と共に変化しどんなに強いものでも、何時か最期には必ず滅びる時が来る。(諸行無常)

ブッダの真理は現在の『既存宗教』とは遠い位置に有る『科学的思考方法の典型』で、ブッダは仏教の始祖で有ると共に『科学』の、或いは科学的な思考方法の偉大な先達でもあった。
しかし残念なことに今の仏教はブッダの真理からは遥かに遠いモノになっている。
中でも創価学会やラマ教のようにカルト臭い一神教モドキのものは特にそうです。
単に『宗教』と言うときは、『ブッダの真理』は別にしないと混乱が生じるでしょう。
このブログでの『宗教』の定義は、最初からブッダの精神とはかけはなれている一神教系とか、既存の其の他の宗教(仏教を含む)に限定して話しをすすめます。





『狩の祈りの効用』

おとぎ話「弓矢の工夫と狩りの祈り」を科学技術の宗教に対する勝利と解釈できるんですが、それでも宗教の完全敗北ではなかった。
北京五輪で北朝鮮の射撃の選手が鎮静剤を使用していたとしてメダルを剥奪されていますが、同等の道具を使用して技量も同等なら後は精神的な差が成績に影響する。

『狩の祈り』の効用は十分に考えられます。

マンモスのような大型獣相手の槍や石斧の狩では、戦いの踊りのような興奮系が有効だが、氷河期が終わった後の小動物相手の弓矢の狩では『狩の祈り』のような鎮静系の宗教(まじない)が有効になってくる。
狩とはスキーと射撃が一緒になったバイアスロンみたいなもので『如何に素早く精神を鎮静化させられるか』によって結果が大きく違ってくる。
そういう意味で『宗教』(まじないを含む)は十分に科学的な存在価値があった訳です。





『科学の全面的勝利後の精神世界』

科学は物質世界を正しく検証する道具として最も優れているので現在、人類の文化の最高峰の地位を得るに至った。
科学と争って勝てるものは今や誰もいないので、『科学』には誰も逆らわない。

しかし、この科学の『絶対的な勝利』は昔からのものではなく、つい最近の事(多分150年前の進化論論争での勝利以後)で其れ以前は宗教が其の地位に就いていた。
其れ以前。(日本は唯一の例外らしい)は、政治や科学や其の他全ての人類の文化の最高峰の地位に宗教(一神教)が座っていた。

そして現在の科学の全面的勝利以後の社会では、科学は物質世界全般全てを取り仕切り、宗教の受け持つ範囲は個人の精神世界(道徳)という極狭い範囲に限定される。

現代社会においては『科学』は全ての物事に対して、正しいか間違っているかの最終的な判定を下し、
『宗教』の受け持ちは個人の道徳観(物事の善悪)といるふうに住み分けているわけです。




『宗教臭い「水からの伝言」に対するニセ科学批判』

『水からの伝言』は一般社会に対して、最初科学として紹介されたらしい。
それで当たり前ですが科学的に間違っているので『偽科学』の烙印を押された。
しかし美しい言葉は良い結果(美しい結晶)を生むとする『水からの伝言』は科学ではなく、如何見ても宗教(宗教モドキ?)ですね。
だから『水からの伝言』をニセ科学として批判する皆さんの行為には如何しても違和感を感じざるを得ない。
正しい批判なら『似非宗教である』とか『教育(科学)の中に宗教(道徳)を持ち込むのはルール違反で有る』とかにすべきで、批判そのものがえらく宗教的になっている



『科学を偽装する宗教(道徳)水からの伝言』

それでは宗教(道徳)モドキの『水からの伝言』が自ら何故か、誰が見ても判る程度のインチキ臭さにもかかわらず『科学』を詐称するかの不思議ですが、
それは科学が全面勝利している現代社会では『科学の看板』は『宗教の看板』の1万倍は信用度が有るからです。
今流行のただ同然の汚染米を食用とした食品偽装とか産地偽装とか耐震偽装やインチキブランド品とまったく同じ手口です。

『水からの伝言』を科学的に間違っているとして批判するのは正しい。
この態度は科学的態度と言えるが、しかし批判がエスカレートして「水からの伝言」を『科学的に悪い』とするのは科学的批判からは逸脱している。
批判そのモノが科学的批判ではなく宗教的(道徳)な善悪の判断をしてしまっている。
私も科学(科学者)は道徳的であって欲しいとは思いますが、科学自体には本来正誤はあっても善悪は無いんですよ。
道徳的な判断基準で有る『物事の善悪』と、『科学的な正誤』とはまったく別の次元の話です。




『科学(教育)と宗教の完全な分離』

科学と宗教は御互いに完全に住み分けるべきで科学に対しては絶対に宗教が介入すべきでないし、我々は介入を許すべきではない。
また宗教に対しても、科学が介入出来る範囲は限定的で有る事を理解するべきである。

しかし自民党や政府文部省の教育部会の会合でいつも話題に上がるのが『宗教的な情操教育』で、宗教を如何にして教育現場(科学)に持ち込むかの相談です。
だから『水からの伝言』が科学ではない、ニセ科学であると幾等批判されても連中は懲りずに持ち込むのです。

『水からの伝言』は元々ニセ科学ではな無いので、『偽科学』との批判は、連中にとっては十分承知の上で行っているので、痛くも痒くもないのです。
『水からの伝言』批判なら宗教を教育(科学)に持ち込むなとするべきです。


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2 コメント

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その通りです。 (東西南北)
2008-11-18 12:56:10
 1:「自民党や政府文部省の教育部会の会合でいつも話題に上がるのが『宗教的な情操教育』で、宗教を如何にして教育現場(科学)に持ち込むかの相談です。だから『水からの伝言』が科学ではない、ニセ科学であると幾等批判されても連中は懲りずに持ち込むのです。『水からの伝言』批判なら宗教を教育(科学)に持ち込むなとするべきです。」「科学と宗教は御互いに完全に住み分けるべきで科学に対しては絶対に宗教が介入すべきでないし、我々は介入を許すべきではない。また宗教に対しても、科学が介入出来る範囲は限定的で有る事を理解するべきである。」

 このような警告を無視したのが田母神前自衛隊空幕長の自衛隊内における教育内容です。個人の善悪、感想、妄想をあたかも物的証拠のある歴史の科学であるかのように幹部自衛官に講義、講話した。まったくの宗教教育であって、しかも、皇国史観・靖国史観という国家宗教を精神的に支柱として、アジア諸国へ侵略戦争、植民地支配を実現した日本政府の軍隊教育として今現在に蘇ってきた。国会における参考人招致においても、田母神さんは「憲法を改正し、集団的自衛権の行使をするようにすればよい。それは私の本音である」と言い切った。しかも、この発言は民間人としての田母神さん個人の本音を聞いたのではなく、あくまでも、自衛官幹部としてこのような本音を擁きながら、現実に自衛隊の中で幹部教育を行っており、さらに、「私が指示すれば1000名を軽く超える自衛官が動くであろう」などと発言した。常日頃から出鱈目な宗教的な靖国史観を教育されている軍人、自衛官が上官の指示・命令でどんな行動をとったのであろうか?5・15事件、2・26事件を想起することが歴史の科学であろう。

 2:「宗教と科学についての基礎知識」

 物質上の根拠のない、物的証拠のない観念は宗教です。他方、物質上の根拠のある観念は科学的な思考方法です。要は、物質上の裏づけ、根拠があるか否かが宗教と非宗教を分かつわけです。では、物質上の根拠があれば何でも科学か、問えば、それだけでは非宗教だと言えるが、科学とまでは言えない。科学というには、物質上の根拠だけではなく、その思考方法=論理、法則が必要となる。つまり、科学とは物質上の根拠を持った論理、法則と定義できる。だから、科学か、非科学を見極めるには、物質内部にある因果関係の論理法則を認識できているか?ということになる。人類の身体を自然物質と認識する立場から自然科学と社会科学を世界観という科学で統一的に認識するのであれば、人類は、人類の身体物質、生命活動という物質文化を根拠にしながら、科学的な思考方法、宗教的な精神活動という精神文化を形成しているということになる。人類の身体物質、生命活動という自然を断絶したら、人類の精神文化は消滅する。ゆえに、人類の自然物質としての生命活動、労働活動という物質文化が人類の科学的な思考方法、宗教的な精神活動を共に規定しているのであって、物質は精神を規定するという唯物論の命題は完全に正しい科学的世界観となります。

コメント有難う御座います (ブログ主)
2008-11-19 16:24:28
東西南北さん。
田母神前自衛隊空幕長の妄言に『宗教』を感じたのは流石です。
田母神は自身の妄言に対して『言論の自由』と発言していますが正確には『信教の自由』ですね。
軍事組織の自衛隊に一般社会のような何でもいえる言論の自由が有るとするなら、明確に自衛隊法や憲法等の現行の日本の法令にも完全に違反しているだけではなく、軍隊そのものの否定につながる。
上意下達、上命下服、異論があったとしても発言は上官の許す範囲に限られている。上官への反論は如何なる理由があろうとも許されない。
一般の兵士で自分が死ぬかもしれない戦争が好きなものは一人もいません。
そもそも『戦争は嫌だ』なんて事を兵隊が自由に発言出来るなら世界に戦争なんか起こりませんよ。
戦争をする軍隊では上官に反抗する者、戦場から逃亡する者は銃殺刑です。
効率を重んじる軍事組織は基本的には完全な中央集権組織になっている。

ですから完全に自由な『言論の自由』の有る軍隊や武装組織は世界広しとは言え世の中に一つも有りません。
世界中を探しても有りません。犯罪組織や一桁足らずの弱小の組織でも、そんなものはありませんよ。有ったとしても烏合の衆で勝てませんし直ぐに分裂します。

田母神は破壊的カルト宗教である靖国神社の掲げる国家神道の自衛隊における『布教活動の自由』を言いたかったわけです。
カルト宗教信者なので、有識者が歴史的事実の事実誤認を指摘しても『そんなの関係ねえ』と突き進む。
それどころか社会からの批判が厳しければ厳しいほどオウム真理教や創価学会と全く同じように『自分たちは正しい。だから迫害されている』と、科学的な事実であろうとなかろうと批判自体が自分たちの正しさの証明になるなるから厄介このうえない。
宗教、其れも一番危険な破壊的カルト宗教なのでリアルな現実世界と遊離しているのは有る意味当たり前ですね。納得してはいけないんですが。

事実の検証から出発する科学と、現実社会が産んだ物では有るが現実の苦しさとか矛盾とか願い、恨み、怒りや劣等感等の解決不能な出来事に対する『ある種の開き直りの解決方法』である宗教とは根本的に意味が違います。
そして田母神に感じるのは癒しがたい強烈な劣等感ですね。
其の自分の矮小な劣等感を癒す道具として、危険極まりない破壊的カルトとしての靖国が利用されたのが今回の事件です。

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