逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

鹿児島の阿久根市長『高度医療が高度障害を生んでいる』

2010年01月03日 | 社会
『不思議なツール』
ブログとは不思議なツールで駅頭で大勢に向かって演説しているようでもあり、密室で親しい人と秘密の隠し事を語っている様でもある。
つい最近ひげの隊長こと佐藤 正久1等陸佐(現自民党参議院議員)と同期の元自衛官で、『最も辞めてもらいたい議員は?』などを自分のブログに掲載し不信任決議案を全会一致で可決、議会解散、再議決で失職、その後の市長選で帰り咲いて現在二期目。ブログ市長として有名な鹿児島の竹原 信一阿久根市長が今度は、『高度医療と障害』の関連性を書いて『差別問題』として話題となる。
一般に広く公開されているブログで市長という公人が書いては駄目でしょう。これでは忌まわしき優生学そのもので道徳的には間違っている。
ところで科学的な客観的事実としては如何でしょうか。?
事実は今の高度医療が高度障害を生んでいるのは医療関係者なら誰でも知っている。
命を助ける程度の技術はあるが治療するまで達していない未熟な発展途上段階にあるのが残念ながら現実です。
ですから阿久根市長の発言自体は真実だが、『公開の場では言ってはいけない』ことなのです。

『医療は生のなかの営み』

阿久根市長は間違いなのか。?
★高度な医療技術のおかげ」で機能障害を持ち、昔の医療環境であれば生存が難しい障害児を生き残らせている・・・
★『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違い・・・
とブログに書いて話題になった、というか批判を受けている阿久根市長。
この市長ブログ書き込みに対しては数々の有名ブログでも取り上げられているが、誰一人も、阿久根市長を弁護する人がいない。
これでは討論になっていないで『主』のいない人民裁判ですよ。(このように屁理屈は何処にでも付く)
仕方がない。(やりたくはないが)私が市長になり代わり擁護の発言を行いましょう。
>昭和天皇の闘病中にもこの発言をいったかどうかと想像すると、けっこう無神経に言っちゃったかも・・この市長。<
と言う批判意見は当たっています。
何しろこの市長は自分のブログで幕府に親近感をもつ公武合体派の孝明天皇(14代将軍家茂とは義理の兄弟)を討幕派の公家の岩倉具視が木戸などと図って暗殺して明治天皇擁立したが、其のドサクサに本物の明治天皇も伊藤博文が始末して替え玉に赤の他人を入れ替えたとの説を堂々と市長の公職にある身で書き込んである。
此処まで書くとある意味尊敬に値する。『座布団全部もっていけ』と言うしかありませんね。
私も以前に30代の働き盛りの孝明天皇の突然の死で歴史が大きく動いたが、英国人外交官のアーネスト・サトウの日記によれば、『討幕派の公家(岩倉具視)による暗殺』説が巷で噂になっていた、とは書いたが、事実であるとは断定していないし、もちろん続く明治天皇暗殺、替え玉説なんか一つも書いてない。
歴史的な事実では、第十四代将軍の死後半年後に公武合体のもう一人の立役者である孝明天皇の突然の崩御で、やっと長州の出番が巡ってくる。
単なる偶然なのか。

『王(神)殺しの伝説』

公武合体派の孝明天皇の突然死は、喉から手が出るほど金が欲しい破産寸前の人物が大金を道で偶然拾う様な話であり、あまりにも長州の為には上手く出来すぎているので、当時の日本人の多くの人々の間では暗殺説が囁かれていた。
真偽は判らないが、当時はみんなが『当然のこと』として噂していたので、薩長新政府派に暗殺された可能性(確率)は可也高い。
また、明治天皇の叔父で明治維新のさきがけである天誅組の首領だった、中山忠光卿を逃亡(亡命)先の長府で謀殺(絞殺)したのも矢張り尊皇攘夷が旗印の長州藩だった。
右翼など過激派連中の、本音と建前の乖離は今に始まったことではない。
これは歴史的なもので日本では昔から天皇に遠い者ほど天皇に敬意を持っていて、近い者や尊皇を口にする者程其の逆だと言う法則が有る。
これは歴史の違いや文化に関係なく世界共通法則でもあるのか、日本右翼もどき?の天皇崇拝のインチキ臭さは、有る意味では世界的傾向である。
ローマ帝国末期では『最高権力者』であるはずの皇帝の権威は薄れて最期の方は、暗殺や毒殺や追放や色々で『天命』をまっとうできた幸運な皇帝は数少ない。
チベットの歴代のダライ・ラマでも、みんなにとって不都合な人物(政教一致の独裁的封建体制にとって都合の悪い人物)は何人もが25歳までに毒殺されていたとの河口 慧海のチベット旅行記の記述も有る。
当時孝明天皇は30代の働き盛りで、暗殺されなければ公武合体で薩長の出番は無くなり同じく暗殺された坂本龍馬が夢見たように、アジアの近隣諸国に対して危険な薩長軍事独裁政権ではなく、選挙で選ばれた徳川慶喜が平和な日本共和国の大統領(大君)になっていて、日本と世界の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

『次元が違う阿久根市長』

座布団の一枚二枚で争っている我々とは阿久根市長のブログの内容は、『根本的に次元が違う』と言いたいのです。
例えるなら、一流科学者の独創的な学術報告や大胆な仮説に対して我々一般の素人が一言も発言する事が出来ないのに似ています。
あのブログは『座布団をまとめて全部もってっけ』状態なのです。
読者のみなさん。
それではみんなが非難するこの阿久根市長の発言は間違いか。?良く考えてください。
市民の生活や健康、福祉に責任がある市長と言う職務(権限)から判断すれば、確かに不適当であろうとは私も思いますが、
それなら、この発言は『間違い』なのでしょうか。?
科学的事実は非難されている市長発言どうりですよ。
市長の指摘する、今の高度医療が高度障害を生んでいるのは紛れも無い事実です。
これ、何かに似ていると思って良く考えてみたら今問題になっている宮内庁の羽毛田信吾長官(事務方トップ)が『天皇会見』が『天皇の政治利用に当たる懸念がある。』として、本来秘密であるべき内閣と宮内庁の遣り取りの内輪話を宮内庁記者クラブの記者団に暴露して、大騒ぎになったのとそっくりですよ。
『政治利用がけしからん』とは笑止。
天皇の政治利用を戦後一貫してやってきたのは歴代自民党政権であり、『美しい国』の安倍晋三が羽毛田を宮内庁の長官に任命したこと自体が政治利用の一つであり、もっと言えば日本の歴史とは有史以来天皇とは『どうしようもなく政治的な存在』であり、みんなで長年にわたって『政治利用』してきたのです。
みんなが知っているが、どちらも誰も口に出さなかったが今回阿久根市長や宮内庁長官が公の場で口にしてしまった。
今回其のタブーを破った阿久根市長一人を非難するのは、まったくの筋違い(不公平)と言うものです。
小さな市の一市長の発言が『悪い』なら、それ以上に影響力のある宮内庁の羽毛田信吾長官の方が何十倍も『何百倍も悪い』にならないと話の筋が一貫しているとは言えない。

『美しい物語、醜く厳しい科学的真実』

この阿久根市長発言は(悪意ある)根本的誤解で、人間どうし「つながる」ための動きが必要で・・私の知人は「障害者でよかった!」ときっぱりと言っています・・・・との貴重なご意見を頂いた。
美しい話ではあるが、
>「障害者でよかった!」<
は、(誰に対しても普遍的である)科学的な事実ですか。?
この言葉は、(科学的)真実だと思いますか。?(私も真実であってくれればどれ程素晴らしいか。とは思いますが)
今回、皆さんの話と私の主張は合っている様で全く合っていず、全然別の話を同時にしているのです。
本当に健常者よりも障害者の方が『良かった』と科学的に証明されれば、ですね。
今までの人類が長年営々と続けてきた『努力』は、みんな無駄だったことに為るのですよ。
何故なら多くの人々は障害者を健常者に変え様として散々努力してきたが、これは非常に難しい。
其の反対に健常者は幾らでも障害者に、簡単になれる。
健康は良い事であり障害や病気は悪いことなのです。
ですからこれは科学的事実云々の話でなく、其々の個人個人の『内心』の話なのです。
そして私が一貫して主張している主張の骨子は『社会的な制度や法律などを問題とするべき』であり、民主主義の原則である個人の聖域としての『内心は語るな』なのです。
近代民主主義は個人の『違法行為』は処罰するが、
それ以前の社会では重罪であると考えられていた個人の『内心』は、どれ程モラルに反する不思議な考えであれ凶暴であれ異常であれ『違法』とはせずに処罰しない。
民主主意とは、個人の『内心』を聖域として守ることで成り立っている。
近代社会とは個人の内心である宗教(道徳)から切り離す事で成立しているのです。
政教分離や思想信条の自由の原則ですね。
その為に宗教から科学が独立することが出来たし、それで近代社会は成り立っているとも考えられるのです。
民主主義の基本は、どれ程悪い事でも(あるいは良いことでも)内心である限り守るべき(誰も責任を問われない)ものなのです。
近代以前の個人の『内心』を問題視する社会は、これはもう今よりも道徳的ではあるが矢張り住み難い堅苦しい社会ですよ。

『民主主義の根本原理』

幾ら心の中で妄想を膨らませても、あるいは道徳に反する事を小説などに書いても、リアルでなくフィクションであれば罰せられない今の社会は実に素晴らしい。
ところが近頃問題に為り出したセクハラや差別問題ではこのリアルとフィクションの境界線が曖昧です。
完全に事実だけを問題とせず被害者の『内心』が最優先される。
これは危険な兆候ですよ。
国家や社会が、個人の内心について『あれは良い、これは悪い』と判定して取り締まる社会は断じて許してはならないのです。
内心の内で、『よい物だけを保護する』は駄目です。
例外なく(悪いものも)保護するべきなのです。それでないと良い物も結果的には守れないのです。
其れが長い歴史から我々人類社会が学んだ民主主義の基本原則なのです。
欧州など民主主義先進国と言われている処でも実はこの原則が一部封印(隠蔽)(例えばホロコースト)されていてイランの強硬派アフマデネジャド大統領にからかわれていたが日本でも児童ポルノ禁止法で心配している学者も大勢います。
(欧州では日本の様に旧軍服をみだりに着用したり在日特権反対の会の人種差別などは即座に逮捕される)
基本的に最初からこれ等は表現の自由の範疇に入れず、その埒外においているのです。

『絶対の「悪」を想定する一神教的世界観』

欧米民主主義は、根本的なところで大きな間違いを犯しているのです。
日本では敗戦後太平洋戦争に対する責任は『日本人全部の責任である』と考え一億層懺悔で東条などA級戦犯やヒロヒト天皇の戦争責任を曖昧にしたと批判されているが、
ナチスドイツの戦争犯罪を未だに許さず追及している(と見られている)ドイツでは、敗戦後第二次世界大戦に対する戦争責任は『ドイツ国』でもなく、日本式に『ドイツ人全部』でもなく、戦争責任は全部が『ナチス』に限定。歴史的事実を隠蔽して真実(責任のありか)を摩り替える事に成功する。
ドイツ国家としての正式な組織であるドイツ国軍やナチ突撃隊の罪を全て隠蔽して、ナチスの私的な組織であるSS(ナチ親衛隊)に全ての責任を押し付けた。
このような恥ずべき隠蔽(責任転嫁)を国家ぐるみで行ったのがドイツであり近隣の西側民主主義国家であったのです。
戦争犯罪で、日本は遅れていてドイツは進んでいるなどの考え方をするお気楽な左翼もいるが事実は全く違う。
日本は平和憲法を戦後一貫して守りとおしたが、対照的にドイツでは早々に憲法改正、国軍の復活、徴兵制から共産党の非合法化、今では堂々と海外に戦闘部隊を派遣して戦死者を出している。
『ナチス』(SS)と言う絶対悪を予め決めて、其れに対しては民主主義の例外規定であると定めた。
後には例外規定に野党だったドイツ共産党も『左右の全体主義』であるとの屁理屈で無理やり含まれてしまった。東ドイツ消滅で政治警察(秘密警察のシュタージ)の悪事が暴かれたが西ドイツにも同じ様な組織は存在したし同じような悪事を働いていが現在でも国家が健在なので秘密警察も健在のまま。
ドイツなど欧州諸国のように一つの例外も作ってはならない。
オウム事件で警察の違法極まる法律の拡大解釈を、相手は破壊的カルトで『悪いやつだから』と我々市民が安易に目を瞑った結果が、反戦団体や共産党のビラ配りで住居不法侵入で逮捕される現在が生まれてしまったのです。
自分の意見と正反対の悪い意見であれ『内心は絶対に保護』しなければ我々みんなに必ず将来同じ『災い』が降りかかってくるのです。


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「内心の自由」を許してはいけない (愚樵)
2010-01-03 13:44:22
明けましておめでとうございます。ことしもどうぞよろしくお願いします。

年頭から興味深いエントリーですね。

「内心の自由」が民主主義の根本原理。これは全くその通りで、「内心の自由」を吐露した“だけ”の公人が非難されるというのは、民主主義の原則に反しています。

けれども。私は最近、「内心の自由」を無制限に許してはならないと考えつつあります。「内心の自由」を絶対視することが、現在の日本の精神的な荒廃を招いたのではないでしょうか?

「内心の自由」の絶対視は、特に教育に大きな影を落とします。現在、主として左派は国家による道徳教育には反対で、その時に盾になるのが「内心の自由」。私も国家が国民の「内心」に踏む込むことは絶対あってはならないと感じますが、国民同士で内心に踏み込み合うことは必ずしも悪いことではないように思う。子どもが「内心の自由」を盾に親の説教を聞かないことなんてことが一般化してしまえば、子どもの心は荒廃するに決まっています。そもそも内心に踏み込まない人間関係なんて虚しいものでしかありません。

西洋発の民主主義はいざ知らず、“逝きし世”の日本にあった民主主義は、たがいに内心に踏み込み合う間柄だったからこそ成立したものだったのではないでしょうか?

権力者に内心の自由を許してはならない (逝きし世の面影)
2010-01-03 16:31:54
愚樵さん、コメント有難うございます。

首相とか閣僚など権力者の『内心の自由』は問題でしょう。権力の自由と一般市民の自由は大概は相反する。
ブログ記事に書いている『内心の自由』の原則とは、一般市民の権力に対する限定的な話で、すべてに拡大解釈すれば、其れこそ自由を損ねる。
中山国土交通相の『郵便ポストの赤いのも日教組のせい』などの信念は、論外です。こんなものに自由を認めては周りの者が迷惑する
世の中に(無人島でロビンソンクルーソーのように単独で暮らさない限り)完全なる自由なるものは存在していません。
家庭であれ社会であれ共同生活では個人どうしお互いの自由が重なっている部分が生まれるのでどちらかが一方的に『完全ある自由』を主張すると、相手の自由を侵害してしまう。
誰かの『自由』は、他の誰かの『自由』を侵害する。
この解決方法は双方が一定限度譲り合う以外に方法は無いのです。

そして国家や社会に対して『個人の内心の自由』は、守りきるのが民主主義の基本中の基本で、一つの例外も作ってはならない。
例えば東京都での学校現場への日の丸君が代の強制で教師が多数処分され裁判でも『内心の自由は認めるが、起立しない歌わないなど外に行為として現れた段階で内心ではなくなる(内心で無いなら外心?)ので保護の対象外』なんて凄い考え方も出て来ている。
これ等石原慎太郎や米長邦雄的な発想では江戸時代は完全な信教の自由があったことになる。何故なら例え隠れキリシタンであれ踏み絵を行いさえすれば内心で信仰していても罪には誰も問われなかった。石原慎太郎レベルの民主主義は江戸時代以下の水準で近代民主主義とは呼べない。
限度の見極めが問題 (もえおじ)
2010-01-04 23:48:14
>阿久根市長の発言自体は真実だが、『公開の場では言ってはいけない』ことなのです。
同感です。 「市長に対する感情的な批判にうんざりする」ことも言ってはいけないのです。

同じ意味で、『ドイツ国家としての正式な組織であるドイツ国軍やナチ突撃隊の罪を全て隠蔽して、ナチスの私的な組織であるSS(ナチ親衛隊)に全ての責任を押し付けた。 このような恥ずべき隠蔽(責任転嫁)を国家ぐるみで行ったのがドイツであり近隣の西側民主主義国家であったのです。』も公式に言ってはいけないことなのです。 欧州の知識人は、そんなこと誰に言われなくとも分かっています。 でも、政治的にドイツ(及び、欧州)が過去を清算するために必要だったのでしょう。

論理的に無理があれば、やはり例外事項を作らざるを得ない。 ただし、それをやらないで日本の様に全体を曖昧にしておくのが良いかどうかについては、判断は難しいです。 もっとも、『自由の侵害』の問題については双方が一定限度譲り合う以外に方法は無い、というのは有力な考え方だと思います。
>知識人は、そんなこと誰に言われなくとも分かっています (逝きし世の面影)
2010-01-05 15:02:21
もえおじさん、コメント有難う御座います。

『みんなが知っている真実』の意味が、本当の意味の国民一人ひとり(全員)ではなく、もえおじさんも指摘しているように『知識人限定』であることが問題なのでしょう。
そして知識人とは何時の世でも少数派にすぎません。
今の半数以上が大学に進む高学歴社会は知識層が増えた社会ではなく、知識の拡散で『知識に対する敬意』が薄れただけの社会のように思えてなりません。
今でも社会全体に占める知識層の比率はそれ程変化はなく矢張り少数でしかない。これらの『隠蔽された真実』を知っている人の数は限られている。
ですから優れた文化を一部の知識層だけが持っていた為に文明の崩壊と共に全ての知識も失われたマヤやインカ、アステカのような例はそれ程珍しくない。
欧米でのこの『ナチに全ての責任を被せる』戦争責任のすり替えを知っている知識層の総量は人口全体からいえば極少数で、遠く日本ではもえおじさんのように正しく理解している人はもっと少なくなってくる。
日本の知識人でも『ドイツは戦争責任は真面目で日本は適当に誤魔化した』と思っている人が結構多いのが残念ながら現実です。
日本でもドイツによく似た戦争責任のすり替えである、『第二次世界大戦の戦争責任は東条英機など一部軍国主義者だけの責任で日本人全体は戦争の被害者』との取り決めが日中国交回復のときに中国の周恩来と日本の田中角栄の間で決められている。
この日中の約束(取り決め)を知らなかった中曽根康弘が首相の靖国公式参拝をして中国を激怒させるのですが、日本の事務方から戦争責任に蓋をする取り決めを聞かされた後は一度も行っていない。
政治家の端くれのはずが『知らなかった』とは情けないが、この様に日本ではほんの10年程度前でも『隠蔽された真実』は簡単に忘れさられるのです。
ましてやドイツでは65年間一貫して隠蔽されてきたので、今では真実を知っている人の数は知識層でも数えるほどではないでしょうか。?
ノーベル文学賞受賞者のギュンター・グラスは子供のときにナチ武装親衛隊に志願していたことを自分から告白したときのドイツ社会の反応は常軌を逸した凄まじいものでしたよ。
日本には天皇がいた (もおえじ)
2010-01-06 20:26:25
ドイツの知識人の例として、哲学者 Karl Jaspers の『戦争論』を挙げたいと思います。 彼は、当時を振り返って Gestapo に捕らえられ投獄あるいは処刑される危険を冒してでも、「戦争に反対するために路上に出て市民に戦争が間違っていることを訴えるべきではなかったのか」を正直に苦悶しています。 これは、Guenter Grass の告白(自分の恥を晒して懺悔する行為)と合い通じるものがあります。

方や日本でも、戦後まもなく一部の知識人から『一億総懺悔論』(私たち国民も戦争に加担したとの趣旨)の考えが発表されたそうです。 しかしながら、庶民から多くの批判(例えば「私たちは騙されていた」等)が起こり、結局大ひんしゅくを買っただけに終わった経緯があります。

その後の戦争責任の政治処理は、ドイツと日本で異なるのですが、本音では日本の庶民の多くも「戦争責任は当時の軍部・軍事政権にあった」と感じていたのではないでしょうか。 ちなみに、あくまで私見ですが、その後の日本のあいまいな戦争責任の政治的対応には、昭和天皇の政治責任をどう決着させるべきかという厄介な問題が関係していたと考えます。(天皇に統治権限があったかどうかは別として、形式的には権力の頂点にいたから。)

少なくとも、昭和天皇の戦争責任を問わないのであれば、ドイツ的解決法を日本に一部適用し、(ナチスのゲルマン民族優生論と同様の)日本は神国であるという国家神話を否定して、昭和天皇は『国家神道=天皇制(神的存在)』という枠組みに利用されただけであるという歴史認識を確立すべきだったのです。
もえおじさん、コメント有難うございます。 (逝きし世の面影)
2010-01-07 12:44:28
何時も物議をかもす竹原 信一阿久根市長のブログ発言を擁護するという・・・・何とも無理筋の話なので風呂敷を広げ過ぎて、5000字をこす長文でしかも主張や主題が右往左往。
しかし日本流の戦争責任の『みんなに責任がある』は善良で正しくはあるが、簡単に『みんなに責任がない』の一億総無責任に変化してしまう危険が何時でも存在しているのです。
私としては『王(神)殺しの伝説』をメインにしたかったのですが、
この王殺しは北条氏など関東武士団の特徴らしく鎌倉幕府の源氏三代の将軍の死が全て自然死ではなく暗殺の可能性が非常に高い。
それ以外でも歴代天皇や将軍たちの内で不思議な死に方をした人たちは多く、このことは誰が見ても勝ち目のない戦争をだらだら意味もなく続けた昭和天皇の戦争終結の判断にも影響しているのではないでしょうか。?
クーデターを心配して戦争を止めれなかったとの説も有ります。

『絶対の「悪」を想定する一神教的世界観』のドイツの戦争責任問題は表の『政治家レベル』では確かに旧政権(ナチス)を完全に排除して、日本のようにA級戦犯の岸信介が復活して首相になることはなかったが、
ところが国家の根本である暴力装置(国軍、政治警察)などではドイツ敗戦直後から対ソ諜報網のノウハウのあるナチスの秘密警察を免責して早々と次の世界大戦としての冷戦を遂行していく為に育成していく。
ナチス(旧政権)は完全排除したが、その意味では『ドイツ国』は連続しているのです。
日本でもアメリカ軍は石井部隊を免責して細菌戦を準備したが、旧国軍や特高警察は解体されドイツほどには復活していない。
自衛隊の主力である陸自は警察のキャリア官僚を将校として再建されているので旧日本軍とは違う色々な不思議が存在している。
対してその後に造られた海自や空時は旧軍そのままの売国的組織。海自の旭日旗は旧海軍其のままですよ。
ドイツと日本の戦争責任云々以前に侵略戦争であったことは事実ですが、両国共に『果たして国家にとって、あの戦争の本当の意味とはなんだったのか。?』の総括が出来ていないのではありませんか。?
ドイツの戦争ですが、戦後の処理の方法を見ていると、あれは宗教戦争の意味を持っています。だからあれほど歯止めが利かず残酷になれた。
プロテスタントのドイツは最大の敵である無神論のソ連人2000万人を殺し次に異端者のカトリックのポーランド人800万人を殺した。ついでに異教徒のユダヤ人も600万人殺しています。
ナチスドイツは無神論>異端者>異教徒の順番で殺しまくっているのですよ。ところが戦後はこの事実を隠蔽する為に殊更三番目だったユダヤ人大虐殺だけを宣伝し今や第二次世界大戦の悲劇とはほぼホロコーストだけに限定されている不思議なことになっている。
ホロコーストを宣伝するのは戦争の本当の姿を隠蔽する目的が隠されていると睨んでいます。
日本でも国家神道(靖国神社)の果たした役割は決して低くはなく一部宗教戦争の側面も持っているが、それ以上に昔のスペインやポルトガルの行った略奪型の古い形式の帝国主義戦争だった。
戦争が終わった途端に信者がいなくなった明治政府が捏造した新興カルト宗教の国家神道とは違い欧州の一神教は2000年の長い伝統があり欧州人のDNAに深くしみこんでいるのでしょう。
無題 (alice)
2010-01-09 21:31:21
この阿久根市長発言は、公的人物が発するべきものではなかったとして、非難されるに値すると思います。

こんなことを言っては、座布団の一枚二枚で右往左往する対象に成り下がってしまいます。

発言内容についていうと、たとえばですが、科学医学の進展や食糧事情や衛生環境の改善によって、昔ならとっくに死んでいた年になっても、多くの人が今は生きている。ブログ主さんは、それらの人々も障害者であって科学的には生き残るべきではなかったとおっしゃるのでしょうか。もしかするとそれは科学的というよりも論理的に正しいかも知れませんが、そんな論理がまかりとおっていたら、人類がここまで繁栄し、人権などという理念が根付くこともなかったのではないでしょうか。

もうひとつ、「障害者で良かった」という言葉は、「どんな状況であっても自分自身を卑下することはない」という、生命力の強さと生命への感謝に通じる感情であって、何も「科学的に正しいのか」とかなんとか、難癖つけるようなものではないと思います。
私はブログ主さんの見解には同意することが多いのですが、さすがにこの部分は表現として適当でないと思いました。まさに、阿久根市長発言と同様です。
訂正 (alice)
2010-01-09 21:32:58
すみません。上の発言の「それらの人々も障害者であって」という部分から、「障害者であって」を削除して読んでいただきますようにお願いいたします。
初めてコメントします。 (ホビット)
2010-01-09 23:42:22
はじめまして。
「寒冷化」で検索していたらこちらのブログにたどり着きました。
興味深い記事が満載で、つい読みふけってしまいました。
薄っぺらい教養しか持ち合わせていない私がコメント残すのは失礼かと思いましたが
思うこと、感じたことをを書かせてください。

私には知的障害のある息子がいます。
彼は身体にも軽い障害があります。
ですが、次に生まれ変わってもまた我が息子として生まれてきてほしいと思っています。
今と同じ障害を持ったままで良いので、また我が子として育てたいです。

でも障害児の親たちみんながそう思っているでしょうか?
私にしても、子供が今のような軽度ではなくて
四六時中の介護が必要な重度障害だったとしたら?
高度医療こそ必要ないけれど、自傷や他傷や迷惑行為不潔行為のある子供だったら?
今のように「次も私の子供に生まれておいで」と思えるだろうか?

身の回りのことは自分ででき、人とのコミュニケーションもある程度スムーズで
穏やかな生活を親子も周りもおくれる程度の障害だからこそ
そんなのんびりしたことを言えるのです。
親も本人も疲弊しきった重度障害児の家族は数えきれないほどいるのは事実です。

私は障害児の親ですので、かの市長の意見にはけっして同意はできないしやはり憤りを感じます。
でもある意味では「言ってはいけない真実」を言っちゃったんだなぁ
という諦めみたいな感情もあるのです。

ただ、考えてほしいです。
高度医療で延命しているのは障害者だけではありません。
たとえば市長自身が延命治療しか方法が無い病気になられたとしたらどうするんだろう
たとえ高額医療だとしても生きていたいと思うのではないでしょうか?
たとえ治癒の無い、延命しかない苦しい治療だとしても。

生きるということの意味に市長は言及されているのだと思います。
でも私は、生きることに何か意味を見出ださなければいけないわけではない
生きているというそれだけで、大きな意味があるように思います。
それを自分の子供や周りの障害児やその家族たちから教わりました。
障害者本人もその家族も、そしてきっと延命治療のみの患者さんも
祈るような気持ちで日々を生きていると思います。

生死の問題を語るには、かの市長さんはかなり言葉足らずだったなぁ、という印象です。
私もここまで書いて、これをコメントとして送信しても良いものかどうか迷います。
難しい障害者の問題なのに、あまりにも稚拙な頭で考えた内容でお恥ずかしい…


面白い記事ばかりで興味深いです。
これから少しずつでも読ませて頂こうと思っています。
長々とすみませんでした。
ありがとうございました。
aliceさん、コメント有難う御座います (逝きし世の面影)
2010-01-10 10:41:02
まったく仰られるとおりです。
幾ら小さな田舎の一都市の市長とはいえ不味すぎる。
当ブログ記事にもはっきりと、
『>一般に広く公開されているブログで市長という公人が書いては駄目でしょう。これでは忌まわしき優生学そのもので道徳的には間違っている。』<
と一番最初に書いてあるのですが。・・・・
あの発言は『優生学』に限りなく近い。(あるいは優生学そのもの)
優生学はナチスドイツ限定の学問だと勘違いしている人もいるが、実は優生学はダーウィンの進化論から派生したもので、社会ダーウィニズムと対になって19世紀から20世紀前半に欠けて帝国主義のイデオロギーとして採用され人種差別や侵略戦争や大量虐殺などの根拠となった歴史がある。
社会ダーウィニズムについては、
ダーウィンの『人類の進化』(人間の由来と性淘汰)
2009年12月05日 | 文化・歴史
に詳しく書いてあるので、この記事ではなく、こちらのほうにコメントをして頂きたい。
優性論については、
奴隷制の負の遺産「優生学と人種隔離政策」 (セグレゲーション)
2008年05月15日 | 社会・歴史
「一滴の血の掟」ワン・ドロップ・ルール
2008年05月14日 | 社会・歴史
に詳しく記述しています。昔の記事ですが出来ましたら此方の方にコメントをお願い致します。

此処で間違いやすい誤解は、対になっている一方の社会ダーウィニズムは科学的にも道徳的にも明確に間違いなのですが、優生学は道徳的には明確に間違っているが、科学的には我々人類も哺乳類の一種なので家畜の改良で実績のある優生学は困った事に『科学的には正しい』のです。
科学に善悪は無いのですよ。
水騒動では此処の根本的なところで『ニセ科学批判グループ』は間違いを犯しているのです。
たんぽぽたち三悪人の主張である『ニセ科学だから悪い』には何の科学的な根拠は無く単なる個人的な道徳論(内心)にすぎません。
何故なら、彼等の主張の正反対の例である『科学的には正しいが「悪」である』優生学が存在しているのです。
科学的正誤は、道徳的な正誤(善悪)とは連動していないのです。

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