逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

「偶然と必然」を読んで

2009年11月08日 | 共産党
『宇宙の中に存在するものは、全て偶然と必然の果実である』というデモクリトスの言葉から始まり、『生物学が諸科学の間で占める位置は、周辺にあると同時に中心にあると言えよう』と言う言葉から読者に語りかけていく『偶然と必然』の著者フランスの有名な生物学者ジャック・モノー(Jacques Lucien Monod)。
科学者がたとえ自然という言葉がつこうとも哲学を語ることのそしりは免れないかもしれないが、敢えて書く、と著者は宣言。
彼の一貫した主張は、偶然が生み出したものが環境との関係で淘汰されるにしても、それを生み出す根拠は『純粋に単なる偶然、すなわち絶対的に自由であるが、本質は盲目的である偶然があるだけ』。
『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき』だとし、他方で『にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである』とした。

ジャック・モノー1910年フランスに生まれる。1934年Paris大学助教授。1945年Pasteur研究所に入り、1954年以後同研究所細胞生化学室長。1957年来Paris大学教授兼任。微生物の酵素合成の遺伝的制御を研究し、1965年Jacob、Lwoffとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。コレージュ・ド・フランス教授、Pasteur研究所所長を兼ねていたが1976年6月死去。

『人間はそれが科学的で客観的な知識であるならば、最終的には受け容れるしかない。
その為には現在の自己を超克・超越して理想に投企してゆかねばならないが、科学はその為の方法を提供することはない』

『無条件で受け容れるべき』と出来てしまう根拠は、受け入れるのは科学の示す結果とは全く別問題。
受け入れる側自身の問題です。
つまり『現在の現在の自己を超克・超越』の問題ですが、
しかし、こちらは『他方で』としてしまう。
そして『知識の倫理』といいますが、倫理は「自己」の側の問題であって、また知識が科学の側のものであれば、「他方で」と切り離してしまうのであれば、そもそも科学的知識に倫理など無関係なはずなのです。
そのように考えると「無条件に受け入れるべき」とするのは「信仰だ」という以外になくなるのですけどねぇ...。投稿: 愚樵 | 2009.01.30 07:26(抜粋)

瀬戸智子の枕草子  「偶然と必然」を読んで2009.01.29


『同じ現象から正反対の知見、結論』

全く同じ科学的知見から、違った結論が出て来ることは良く有ることで、社会科学、特に経済学なんかでは有る意味当たり前のように正反対の意見(結論)が出て来る。
例えば私は現在の金融崩壊で、中曽根民活からの新自由主義経済の問題点は明らかで言うまでも無い『自明の理』だと思っているが、今頃気付いた人や、未だに構造改革を主張する竹中平蔵や池田 信夫もいる。
同じ数値から全く逆の結論(主張)が、専門家から出て来るのが普通です。
本来同じ意味しかない『数字』さえもそうですから、今回のように意味が幾つも解釈できる『言葉』ならもっと揉める可能性が有る。

今回の記事やコメントを読んで感じた事柄ですが、
『無条件で受け容れるべき・・・・自己を超克・超越して理想に投企すべき・・』
一番愚樵さんの違和感が感じた部分は一連の『・・・・べき』から直感的に上からの目線を感じ取り『命令』や『指示』『義務』の臭いを嗅いだのではないでしょうか。?
それなら大概の人々(国民の大部分)は嫌います。
『義務』の大好きな人はいません。

しかし私のジャック・モノーの解釈は大分違います。
彼は欧米人でしかも99年前(1910年)に生まれた人で歴史的文化的背景が違います。
現代人とは置かれている環境が違いすぎて現代風の解釈には無理が有るでしょう。
彼の生きていた当時の日本では、今では考えられないでしょうが(室町末期の戦国時代かと見紛うような)日本国に布教に来たキリスト教の宣教師が街角に立って辻説法をしていたんですよ。
廃仏毀釈後の当時の宗教界は文字どうり戦国時代だったらしい。
日本の戦国時代、西欧は宗教改革でキリスト教の権威は大きく傷つき、その反動で世界的な布教活動(ミッション)も起こっていた。それで日本(ジパング)まで宣教師がやってきた。
時代は代わり、『偶然と必然』のモノーの生きていた当時の欧米は進化論の影響で、人類文化の最高峰の地位は宗教から科学に移り変わり(宗教改革当事と同じように)相対的にキリスト教の権威は薄れていた。
それで日本(大日本帝国)まで布教に宣教師が来る事態になる。

ですからジャック・モノーも全く別の解釈も出来ます。
この『言葉」は今の日本人に向けた言葉ではなく、目の前の欧米人向けの発言で有ると判断できる。
それなら、当時未だに進化論を認めたくないキリスト教根本主義に影響されている一般市民向けに発言していた。
聖書原理者にとっては、『人間という種の特権性(神の寵愛)』をダーウィンの進化論が否定する事が耐えられない。
自分がキリスト教的な生物のヒエラルキーにおいて下流に属する類人猿などを祖先に持っているのは論外であり我慢できない。
『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである』
の意味は、キリスト教根本主義者に対して発せられた警句とも解釈できる。
それなら日本人は誰でも納得できるでしょう。

『ジャック・モノーの世界』

『偶然と必然』が戦後の日本人、特に知識階級に大きな影響を与えたがジャック・モノー本人が当時の日本の現状とか日本人的な思考をしていた訳ではない。
殆んどの人間は20歳までの経験や思考方法でその後の考え方を組み立てていきますが、彼は第一次世界大戦も第二次世界大戦も経験しています。
このことは想像以上に大きな、多分フランス人のモノーにとっては日本で唯一の地上戦が戦われた硫黄島の戦いと沖縄戦の両方に参加したような決定的な体験です。

しかもモノーは宗教やイデオロギーが『科学』に優先する一神教的な考え方の中で多感な子供時代を過ごしている。
バチカンが進化論を公式に認め、科学の事は科学に任せるようになったのは彼が40歳の時です。しかも彼は生物学者になる。
当時、生物学を含む科学全般で最も大事な事柄はキリスト教との進化論論争の勝敗だったのです。

モノーが生物学の学者として大成した時、当時のソ連は超大国としてヨーロッパの東半分で君臨していたが、ソ連圏では生物学でイデオロギー優先のルイセンコ学説が猛威をふるっていた。
しかも当時のフランスで有力だったフランス共産党はソ連のもっとも忠実な実践者で、そのお陰でソ連崩壊の煽りを受けて20年後には壊滅状態になる。
マルクス主義は科学として出発したはずなのに、科学的な検証を疎かにすると、簡単に自ら決別したはずの宗教(一神教)と、まったく同じ過ちに陥ってしまっていたのです。

『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである』
の意味は、物事の善悪を一方的に判断する宗教(キリスト教)と宗教的な間違いを犯していたイデオロギー(ソ連型共産主義)の科学分野への干渉を否定する事である。と解釈できます。
宗教や哲学では善悪は最重要事項ですが、科学には本来正誤しかなく善悪は有りません。
そして欧米では、日本では信じられないでしょうが宗教の科学の分野への越境は、科学者にとっては最大の問題です。

『偶然と必然の意味するもの』

科学者の立場から、宗教の科学への干渉を『科学的に』批判したものが『偶然と必然』だと思うのですが、その文脈の中で史的唯物論等のマルクス主義批判とも読める『言葉』が出てくる。
モノーの宗教(科学を含む世界の全ての物事に介入してくる一神教)批判は当然で、皆さん異論は無い筈です。
宗教が科学に口出しすべきでない。
許してはいけないし、絶対にしてはいけないことがらでしょう。
ただ、共産主義批判の部分で若干の解釈の違いが有るようです。
しかし私の解釈では、彼は全く同じ話をしているのですよ。
宗教(哲学)であれ、宗教モドキ(ソ連型共産主義)であれ科学に口出しすべきでない。
ジャック・モノーは、人類文化の最高峰は科学であり、科学の上に君臨する『何もの』も認めない立場です。
それなら、日本人なら誰であれごく当たり前の自然な考え方で一々他人(モノー)から指摘されるほどではない常識ごとです。
ですから(日本では)他人から改めて大の大人が指摘されたら愚樵さんのように不愉快になるのは当たり前です。

『科学としてのマルクス主義』

マルクスがそれまでの経済学や歴史学など社会科学を経験論的な別々の事物の積み重ねから、科学的に検証する事によって法則性を発見して『科学』として位置づけをする。この功績は大きい。
ここからが問題です。
日本人的には、科学は正しく本物で、宗教はその反対と思っているが事実はそれ程簡単ではない。
宗教と科学は対立するものではなく並立します。
それどころか『正しい科学』が、何時でも『正しい宗教』に変化することが出来る性質を持っている。
この事をみなさんはうっかりしています。
その代表例がソ連の共産主義ですね。あれは多分間違いなく宗教です。或いは宗教モドキ。
そしてフランスの左翼勢力で最も有力な勢力だった共産党の信奉していたのがソ連型共産主義だったのです。
だから本山(ソ連)が崩壊すると末寺のフランス共産党も簡単に潰れてしまう。
その辺の事情は、日本共産党の一部幹部は知っていたようで、早くから自主独立路線を掲げるし、マルクス主義と呼ばずに科学的社会主義と名称まで変更する。
欧州などの外国の共産党と日本共産党は同じとの考え方は基本的に間違いで、正確では有りません。

まあしかし、残念ながら確かに似ているところも有る。
3年ほど前に共産党幹部がセクハラを理由に辞任した後離党した筆坂事件で、党員(支持者)のブログで批判記事が連載されていたので『身内の恥はみんなの恥』で『創価学会のようで見っとも無い』し『共産党(選挙)の為には逆効果』であると説明しようとしたのですが会話になりません。
党の方針を批判(反対)するもの(私のコメント)は自動的に反共分子で『敵』と認定される始末。
この人たちは共産党の方針は神聖な教義であり、間違いなどあろう筈がないと信じているのでしょう。
『善意からの忠告』などと言うものはこの世には存在せず、反対するものには文字どうり宗教的な情熱を燃やして反撃しようとする。
怖い話です。
このように、科学的に正しいから宗教にならないではなく、『正しい科学ほど逆に宗教的に無条件で信じる人は多くなる』ので、宗教化する危険があるわけです。
誰であれ科学的な検証を否定して、他からの批判を軽視(敵視)すると、科学は何時でも宗教になります。
以前のニセ科学批判の批判でも指摘したのですが、『科学』にとって一番大事なのは、正しいか間違っているかの問題ではなく、他からのあらゆる検証(他所からの批判)を認める事が出来るかどうかですね。
検証が正しく行なわれるならば、何れは正しい正誤が明らかになる。
科学とは『間違い』を原動力として進歩していくもので、科学的間違いは単なる『間違い』にすぎず『悪』では有りません。

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11 コメント

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Unknown (愚樵)
2009-11-08 17:52:54
いつもTBありがとうございます。

>『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき』だとし、他方で『にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである』とした。

ここでいう「現在の自己」が進化論を拒否する聖書原理者のことであれば、モノーの言い分にも納得がいくというものです。

ただ、そうであっても、やはり私は「超克・超越して投企すべき」には違和感は拭えません。この言い方に、やはり宗教的なものを感じずにはいられません。

私は「人類文化の最高峰は科学」という意見には、無条件で賛成しかねる立場です。科学と宗教を正確さ・精密さという観点でみれば科学が上だと思いますが、包含する範囲の広さでは宗教が上。なにせ宗教には、善悪の観点も含まれるのですからね。

科学の正確さ・精密さは、「わたし」とは無関係に成立するものです。つまり私が死んでしまおうが、科学は微塵も揺るがない。また「わたし」が含まれないから善悪とは無関係とも言えるわけですが、しかし、科学といえど人間の営みですから、どうしても「わたし」との接点を零にはできない。「超克・超越して投企すべき」という言い方は、この「わたし」とは無関係に成り立っているはずの科学が「わたし」と接点を持たざるを得ない、その在り方をしてしているのですね。

日本人の宗教観からしますと、「わたし」がいなくなった世界が変わらず循環し続けるということに何の違和感もありません。いわゆる無常観というやつで、「わたし」自身も循環する世界の一部に過ぎないという認識です。

ところがアチラの世界観はそうではない。一神教には[神-人間-自然]という階層性が明瞭にありますから、科学という自然世界の法則に「わたし=人間」が接するときには、“投企”といったようなラインをまたぐような表現になってしまう。ここが面白いところです。
科学と宗教の意外な関係 (逝きし世の面影)
2009-11-09 09:48:33
愚樵さん、コメント有難う御座います。

このモノーの『偶然と必然』くらい日本人にとって色々自分流に解釈が分かれる(利用?できる)物も少ない。
何しろ超一流(ノーベル賞受賞)の科学者の言葉ですから引用すれば、自動的に何となく『科学的権威』があるように相手(読者?)に思ってもらえるかも知れない。
只これは日本人の完全な誤解です。
科学が宗教と別物であると思っている日本人的な常識では『一流科学者の科学を論じた本だから科学の本だ』と自動的に思ってしまう。
しかし『偶然と必然』は科学論を論じたものではなく宗教論(科学と宗教の関連)を論じた哲学論なのですよ。(このように私でも自分勝手に幾らでも解釈が可能です。)
『科学』と『宗教』は今でこそ別々の全く関係ない分野の『独立したものである』と考えられていますが、歴史的に見ると、この両者には部分と全体の関係の様に分かちがたい関連があるのです。
今の様に科学者と宗教の聖職者が別々である社会よりも聖職者が最先端の科学者や医者を兼ねていた世の中の方が遥かに長い歴史がある。
世界的に見ると日本は例外的で宗教者の地位(特権)はそれ程高くは無いが、こんな国は少ない。
特に一神教世界においては、今でも宗教が『善悪』の全てを判断しており、もちろん科学も例外ではありえない。
その意味で、『人類文化の最高峰』の地位は必ずしも『科学』が独占的に占めている訳で無いのです。
特に個人の中では『何が最高峰であるか』なんてのは個人個人で違ってきて当たり前。熱狂的な宗教信者にとっては『科学的な正さ』などはそれ程重要ごとではありません。
科学の持っている力の源泉は、精密さ緻密さ以上に、信じるものにも信じないものにも平等に作用する『普遍性』でしょう。
ところがこの『普遍性』は単純系には単純に当てはまるが複雑系には、時には当てはまらない(今の科学ではそこまでの精度が無い)場合が出てくる。
そして人々に密接に関連してくるもの(社会科学)の多くは複雑系です。
複雑系である社会科学では今でも発展途上国状態で『科学の持つ普遍性』に限界があり、新自由主義のようなヴードゥー教モドキまでが現れる始末です。
科学と宗教の関係は今のアフガンのように科学の持つ圧倒的な『力』で都市部や交通機関や政府のような表向きのハード面は完全に(無理やりに)支配下に置いているが、それ以外は宗教(タリバン)が今でも支配していているのです。
共産党のカテゴリー (逝きし世の面影)
2009-11-09 10:54:57
愚樵さん。
>『科学と宗教を正確さ・精密さという観点でみれば科学が上だと思いますが、包含する範囲の広さでは宗教が上。なにせ宗教には、善悪の観点も含まれるのですからね。』<

これはもう完璧な愚樵節ですが、社会科学を科学の分野に入れていないのではありませんか。?
今では、科学の受け持つ範囲はどんどん広がりに広がり、『善悪以外の全ての事柄』になっています。
対して宗教が独占的に受け持つ範囲は唯一『善悪』のみですよ。
現在の民主主義とは独立した『個人』を単位としており、『善悪』を判断するのはこの基本単位の個人(あるいは個人の集合体としての社会)に委ねられているのです。
そして個人には基本的人権として信教の自由が保障されている。
今の世の中では全ての事柄の正誤の判定は『科学』が独占的に『最高権威』として判断しており、現在の人類の文化の最高峰は唯一普遍性を持つ『科学』以外には有り得ないのでが、科学の持つ『普遍性』は個々の個別の個人的な内面までもを受け持たないのです。
科学は私と言う個人から離れる事で『普遍性』を持つことが出来るようになる。
いいかえると『善悪』を科学が判断しない事で『普遍性』を持ち得て、『科学』が宗教から独立する事が出来るようになったのです。
科学的正誤から派生する『善悪』も、あるにはあるが、あくまでも抑制的で限界を考えないと駄目です。
基本的に『科学』と『善悪』とは関係ありません。
『善悪』と別である事で、科学の『正誤』の正しさ(権威)が担保されているのです。

今回の記事は本来は『宗教』のカテゴリーに入れるべき内容ですがモノーは『偶然と必然』で批判する対象として元々は社会科学である弁証法的唯物論(共産主義)を入れているので、新しい区割りとして『共産党』を作りました。
宗教から科学が生まれるように、その反対の方向である科学から宗教も生まれる可能性は大いに存在しているのです。
神と戦うドーキンス (逝きし世の面影)
2009-11-09 15:59:14
ジャック・モノーの『偶然と必然』は40年近く前に書かれた本ですが、彼と同じ分子生物学者であるリチャード・ドーキンスの最近書かれた『神は妄想である』(副題、宗教との決別)と同一趣旨の本であるとも判断出来るのです。
ただし、モノーの『偶然と必然』では、神に対する罵倒(批判)部分は何重にも科学的体裁と哲学的な小難しい言い回しで隠蔽されているので本心が分かり難い。
其れで別物に見える。
大きな違いは、ドーキンスでは最大の目的である『神に対する罵倒』部分が著作の大部分で露骨に表現されているのと、冷戦終結以後の著作であるので最早『神』で無くなった『もう一つの神』(ソ連型共産主義)に対する批判が省略されていることでしょう。
その為に表現方法が大きく違っているので別の分野の本であるかの様な印象を読者に与えるのです。
しかしモノーもドーキンスも著作の『動機』(科学者として神と戦う)は同じだった。

一神教特有の[神-人間-自然]という明瞭な階層性ですが、神>人間>自然の順番で出来上がっており、このヒエラルキーでは『科学』が受け持つ『自然』は最下層の卑しい存在でしかないのです。
これでは『全てに対する科学の優位性』を信条とする科学者の端くれならドーキンスならずとも我慢ならない。
天文学のカール・セーガンや生物学のドーキンスのように執念深く『神』を罵倒して当然なのです。
欧米では神と人間と自然は厳然と分離(断絶)していて完全に『別物』で、しかも支配被支配の上下関係にある。
ところが日本では宗教(神)も人間も自然の一部であり渾然一体となっているか、別々であるとしても上下関係ではなく並列関係なので、一神教世界のように科学者が神と戦う必要が無い。
神と戦う必要が無いので『緊張感』も生まれ無い。
この宗教的な緊張感の無いことが日本人の良い事なのか悪いことなのか判断の分かれるところです。
なかなか (Runner)
2009-11-09 19:22:05
東欧崩壊後、在日の東欧人を集めてテレビで座談会のようなものがあったのですが、あれこれ議論した末、参加者の一人が「結局、あれは宗教だったんですよ」と発言したところ、一同、納得。
要するに、科学的社会主義というよりは「宗教的社会主義」、マルクス主義というよりは「マルクス教」です。
はっきりとそういう言葉を使って批判した方がよいかも知れません。

日本の左翼がわかっているのかについては、経験上、甚だ疑問です。
昨今の陰謀話をめぐる議論を見ていても然り。
そもそも、サイエンスを「科学」と訳している時点で、日本人は理解できていないとの指摘は昔からありました。
ある種のジャンルのことだと思っている人、なんとなくイメージでとらえている人が多いのではないでしょうか。
ベルリンの壁崩壊20周年 (逝きし世の面影)
2009-11-10 10:32:32
Runnerさん、コメント有難う御座います。

20年経って、生活が大幅に改善され言論の自由等が認められて、当事と比べれば東西格差は縮まったとの報道もある一方で、其れとは正反対の統一の影の部分もある。
今では東ドイツの住民の60%は『旧東独の方が良かった』と思っているそうですし、東独市民によって一度は完全に否定された旧政権党の共産党系の左翼党が地域によっては第一党に返り咲いている。
壁が無くなり移動の自由が保障されれば、経済であれ何であれ格差があれば低い方から高い方に必ず移動するのは必然です。
首都のベルリンは建設ラッシュで繁栄しているがそれ以外の東ドイツは別で現在東独の人口は1100万人になり統一当時の人口より500万人も大幅に減ってしまって8000万全ドイツの8分の1程度の割合です。これでは不満が出て当たり前でしょう。

まだ壁があった時代ですが、東では頭脳労働と肉体労働との賃金格差が無いが、西では(日本と同じように)大きく違う構造になっていた。
格差があれば、当然低い方から高い方に人が流れる経済法則の結果、若くて優秀な人材がどんどん西に流出して仕舞い、東独は日本の田舎の過疎地化していた。
東西を壁があっても毎年何万人も人口流出があって地域の共同体が崩壊していったのですから、統一して無くなれば如何なるかはある程度は予想が付きそうなものです。
昨今の資本主義(新自由主義)グローバリズムの特徴である全ての物や金や人や情報、技術、資本が例外なく自由に世界中を移動すれば、良い事だけではなく『色々な弊害』も起こります。
ソ連圏からは何百万人ものユダヤ人がイスラエルに流出したが、こればヨルダン川西岸の違法入植地を建設するは、極右政党を作るはで結果的にパレスチナ人に対する人権抑圧になっている。
ロシアでは人口の4分の一近くがアルコール中毒で特に男の平均寿命を大幅に低下させていたり犯罪率が天文学的に増加したりした。
同一民族の統一ドイツの誕生(民族国家あるいは民族自決)の結果、元々民族国家でなかったにもかかわらず東欧でも民族別国家が創られる。
誰も国民が望んでいなかったのにチェコとスロバキアは別々の国家になるが、これは一番うまくいった例外で、クロアチアとセルビアのように全く同じと言ってよいほどに違いが少ない民族同士が殺しあう。(違いは宗教だけだが、其れも日本人から見れば同じキリスト教)
宗教と科学の違いとは (逝きし世の面影)
2009-11-10 12:01:55
Runnerさん。現在日本共産党はマルクス主義という言葉は使っていません。
『マルクス主義』を『科学的社会主義』と変更したのですが理由は『誰であれ個人名をつけるのは不適当』との説明です。
しかし、『科学』では大抵最初に発明発見、理論立てた『人物の名前』がつけられるのが普通なので何とも理由が取ってつけたようで不思議。
個人名がつけられない場合でも『ダーウィンの進化論』とか『ニュートンの万有引力の法則』とか『アインシュタインの相対性理論』みたいに用いられている。、
しかし、日本共産党は『マルクスの科学的社会主義』とは呼ぶ心算はまったく無いようです。
この不思議な『言葉の使いかた』の原因は矢張り個人名では『個人崇拝』のような宗教的なことも起こるので『宗教と科学の混同』を危惧したのでしょうが、何とも姑息な小役人的な発想です。
では、科学と宗教の最も特徴的な違いとは何でしょうか。?
この両者の最も特徴的な違いとは『異端の存在を許容出来るか、出来ないか』ではないでしょうか。?
どんな素晴らしい科学的発明発見、理論、学説でも一番最初は定説(正しい学説)に対する、単なる異端にすぎません。
異端を認めない社会には発展は有り得ないのです。真っ当な科学なら『異端』(異論、反論)の存在は歓迎する。
この異端の有るなし(異端を良しとする)を科学と宗教の基準で判断すれば、近頃ネット社会だけで流行っている『にせ科学批判』(水からの伝言騒動)は間違いなく宗教の異端審問ですね。
あるいは科学的批判を許さない温暖化論議も宗教くさい。
大阪大学の菊池物理学教授の9・11関連の陰謀論論議も同じ範疇に入ります。何ともお粗末な新興宗教のきくち教ですね。
科学者だから宗教とは関係ないではなく、数学の様な誰がやっても同じ結論(答え)になるものでも宗教として成立するならどんな科学でも宗教にすること(変化)が出来ます。
ところが共産党には組織原則として分派行動を許さない『民主集中制』を標榜しているが、これが共産党が宗教化する最大の根拠(原因)となっているのですが、この事に気づいている共産党党員は困った事に案外少ない。
標榜しても (Runner)
2009-11-10 19:06:23
かつて、アインシュタインは「君は社会主義者なんだから我がソ連に住みたまえ」とのスターリンからの誘いに対して、「真理の国には人間的権威は存在しない」と言って断りました。
本当に科学的精神を持った者なら、様々な権威主義に嫌悪感を示すはずですが、日本ではそれが希薄です。

「科学的な主義」と標榜しても、意味がわかっていなければ実践できるはずがありません。
理系出身だからといって科学をわかっているとは限らないことはオウム教団が証明してしまいましたしね。
そういえば、「幸福の科学」という宗教団体がありますね。
「科学=正しい」というイメージを利用しようという魂胆でしょうが、しっかりしないと左翼組織も同じと言われてもしょうがないですよ。

「民主集中制」については、本当に共産党がそれを正しい制度と考えているのなら、民主党や自民党に国の制度として採用するように進言すればよいのです。
民主集中制についての誤解 (逝きし世の面影)
2009-11-11 16:37:17
Runnerさん、コメント有難う御座います。

『宗教』と『科学』は相反する概念で、全くの別物であるとの認識が一般的ですが、実は部分と全体、あるいはコインの裏表の関係のように完全には分離できないばかりでなく共通の先祖を持っていて『人』とチンパンジーのように、違っている部分は極少数部分だけで、それ以外は多くの共通のDNAを持っている。
DNAだけを言えば、人も類人猿も同じ種類の生き物なのですね。
これと同じ事が民主集中制にもいえます。
個人を基本とする民主(民主主義)と集団を基本とする集中制(中央集権)は、まったくの別物であるとの認識ですが、実はコインの裏表の様に切り離せない関係にあるのです。
ロビンソン・クルーソーのように絶海の孤島で漂流生活をしていない限り完全な個人主義は有り得ない。
誰であれ社会生活を送る限り幾らかは国家と言う集中制(中央集権)的なものからは逃れられない。
またその逆に集団しかない中央集権の代表的組織である『軍隊』でも個人主義(民主主義)を完璧に無視することは不可能です。
何故ならどんな集団でも一人一人個人個人を集めて集団にしているのでやっぱり個人(民主)は無視できないのです。
ですから言い換えれば何処の組織も民主と集中の部分はありその意味では『民主集中制』であるとも考えられます。
政党の中で一番中央集権的であると思われている共産党ですが、面白い事に組織的には一番民主的に出来上がっている。
たとえば共産党とは大きく違い、民主党も自民党もいかにして中央集権(反民主主義)にするかに腐心していているのですよ。
自民も民主も規約で『党首一人』が全ての党役員を独断専行で選んでいますが、共産党では全ての党の役員は党大会で党員が選んでいる。
また現在、閣僚や党の幹部が色々な矛盾する方針を発表してマスコミに批判されているが、其れに対しては鳩山代表が『最後に私が(独断で)決めます。』が決まり文句になっているのです。

ところが共産党以外の政党は『民主』だけを言い、共産党だけが『民主集中制』だと言っているのです。
この事が何を意味するのか。?
実に面白いのですが、これを論じだすと長くなるので別の記事を書きたいと思います。
Unknown (オザワユキオ)
2009-11-25 11:16:51
平野博文官房長官が24日の記者会見で、イエメンで誘拐された日本人技師の解放を発表した際、
「誘拐」を「ゆうわく」と2回言い間違え、会見後に首相官邸報道室が訂正文を出す一幕があった。

平野氏は会見で「日本人誘惑事件について」「イエメンで誘惑されました真下武男さん」と発言。
前政権では麻生太郎前首相が「未曽有」を「みぞうゆう」と発音するなど読み間違いを繰り返し
「漢字が読めない」と批判された経緯がある。

ただ、平野氏は17日の会見では「ゆうかい」と正しく述べており、
関係者は「単なる言い間違い」と強調している。【横田愛】

11月24日19時47分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091124-00000093-mai-pol

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