逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

体罰とイジメとシゴキ、体育会と戸塚ヨットスクールと相撲部屋

2013年01月24日 | スポーツ・文化

『体罰とスポーツと、人が死ぬ理由』

大阪市立桜宮高校バスケット部の主将がクラブ顧問から体罰をうけた直後に自殺する事件が発生。体育科の入試中止問題にまで発展している。
今回少しは反省している風を装う体罰肯定派の橋下徹やヤンキー先生義家弘介などは何故か全員が右翼的言動を行うし、戸塚ヨットスクールの体罰を天まで持ち上げるのは欧米主要紙にまで右翼のゴロツキと名指しされる石原慎太郎である。
体罰と右翼には明確な関連性があるようですが、ただ今回の高校生の自殺とは無関係ではないが直接の関連性は薄いでしょう。
肉体的苦痛ぐらいで本物のアスリートは自殺などはしない。
そもそも『スポーツ』とは肉体的苦痛を必ず伴う行為ですよ。
苦痛が少しも無いスポーツなど有りません。らくで楽しいだけなら、それはレクリエーション程度でありスポーツ競技では無いのです。
通常なら耐えられない肉体的苦痛をあえて耐えることでランナーズハイのような、痛みと共に一種の快感が生まれる。
そもそも近代スポーツの起源は18世紀産業革命期の英国での、賭博や暴力と紙一重の流血を伴う危険で苦しいブラッディスポーツなのです。
内包する野蛮な暴力性をルールで緩和(抑制)することで、今のような健全なスポーツが成立したが日本では今だに近代以前の悪しきDNA(暴力)を理性で押さえることが出来ないでいるのでしょうか。

『肉体的苦痛ぐらいで自殺などはしない』

この明確な事実を、今回の事件で体罰賛成派も反対派も完璧に失念しています。
自殺したバスケット部主将ですが、発奮を期待してかも知れないが顧問から体罰を受ける度に主将を辞めるように言われていたらしい。
本人も主将を辞めるかどうか迷って顧問に相談したが、『主将をやめるなら二軍行き』との二者択一を迫られる。
これはもう無茶苦茶。
これでは到底耐えられない。
高校は地元でも有名な進学校なのですが、インターハイ出場チームの主将なら確実に有名私立大に推薦入学が望めるが、二軍選手では絶対に無理です。
肉体的苦痛ぐらいで自殺しないが、人としての尊厳を奪われ人格を無視されては多感な思春期の青少年では耐えられなかったのでしょう。
なんとも腹立たしい悲惨な話である。
特に部のトップである主将としては、他の部員全員の前で叩かれるのは男のプライドが一番傷つく。
『面子が潰れる』『顔が立たない』などの言葉があるように人の顔は自尊心などの象徴的な意味がある。
大事な顔面を無防備に晒させておいて、平手で張るというのは、相手に屈辱と無力感を与えることを最大の目的としている精神的な虐待行為である。

『勝利至上主義と成果主義』

体罰を避けようとに顔をかばう人としての自然な回避行為は絶対に許されないのです。
日頃の苦しい鍛錬で肉体は鍛えられる。
しかし、逆に心は精神的虐待に対しては弱く無力である。徐々に少しずつ壊れていって最後に決定的な破局を迎える。
野蛮で無意味な体罰の横行ですが、スポーツ界全般に蔓延る目先の1勝に極端にこだわる悪しき勝利至上主義がよんだ、当然の結果でしょう。
特に高校スポーツはトーナメント(勝ち抜き)方式が多い分、余計に『1敗も許されない』との完璧主義、勝利至上主義が生まれる下地がある。
人間としての個々の選手の成長過程は長い時間的スパンでないと分からないが、スポーツの勝敗の結果は誰にでもすぐに分かる。
ところが今回の桜宮高校のような有名スポーツ強豪校では監督コーチなど指導者側には『結果を出す』成果主義が、当然のように求められるのです。
長い目で選手の成長を促すのではなくて、手っ取り早く成果を出そうと焦れば当然体罰が横行することになる。
結果をよく考えもせず未熟な『高校生の競技』を安易に全国放送している現状は危険である。ましてや高校野球などによく見かけられる、解説者などが未完成の選手を天まで持ち上げるマスコミの行為は悪質である。
TVなど映像メディアは、発展途上段階の高校生に今回の自殺のような過剰なストレスを与える危険性を正しく認識しているとは到底思えない。

『旧日本軍の悪しき伝統』

目先の勝利に拘る悪しき勝利至上主義と言えば、旧日本軍などの軍隊に勝るものはない。
上官や古参兵による新兵に対するリンチ紛いの体罰(私的制裁)は旧日本軍の伝統的な訓練方法だったのですから、徴兵された兵士はたまったものではない。
訓練に関する体罰もあったが、体罰で最も激しく恐ろしかったのは旧軍特有の『員数合わせ』だった。
軍隊とは自己完結型の組織で、頭のてっぺんから爪先まで全てが官給品で、武器や軍装だけではなく靴下から何から全てを用意してくれるのですが、旧日本軍では『消耗する』ことを計算に入れていなかったようです。
結果的に員数が合わなくなるが、其れが軍隊としての日本軍は絶対に許されない『重大な悪事』とみなしていた。
其の結果が凄まじい体罰(リンチ)となるので、『紛失』の恐ろしさを知っている兵士達は仕方なく同僚の日本兵から盗むが、盗まれた兵士は次の兵士から盗む。
一度盗みが始まると誰かが死ぬほど体罰を受けるまで果てしなくこの恐怖の椅子とりゲームは続く訳です。
当時の日本軍の全ての兵士は、この『不幸の手紙』か『ババ抜き』のような愚かな実りない行為(永久運動)に全神経を傾けていたのですが、はたから見れば実に馬鹿馬鹿しい。
装備が消耗するのは当たり前で、兵士を厳しく罰すれば無くなる種類のものではない。
考えてみれば不思議な話です。
この原因の一つが日本軍が『軍隊と言う名前の官僚組織』であったためではないでしょうか。?

『員数と要領』

硬直した官僚組織では『形式』(前例)と『員数あわせ』は何ものにも勝る最大の価値感になる。
そして旧日本軍とはまさに究極の官僚組織であったのでしょう。
日本軍のこの不思議な悪弊『員数あわせの泥棒ごっこ』の事実は兵士でなくとも少し前なら有る程度年齢が上の世代では誰でも知っていた。
それにしても不思議ですね。
昔の戦争映画なら必ず描かれる兵士の有り触れた日常風景なのですが、今の戦艦大和などでは描かれていなかったしアメリカ映画のイーストウッド監督の硫黄島でも描かれたいなかったのです。
あまり名誉な歴史ではないので戦争責任などと一緒に『無かったこと』にされているのでしょうか。
健忘症か歴史修正主義であり、困ったことです。
旧日本軍では、軍隊内で結果的に泥棒が推奨されていた。
服装、装備など官給品の管理は厳格で紛失は厳しく追及される。
盗まれたことは理由にならず、『おそれおおくも天皇陛下からご下賜いただいた○○の数が足りないとはなにごとだ』と徹底的に体罰を受けるので紛失を知ったらすぐ同僚のものを盗んで『員数』を合わせるが、これを『要領』と呼ぶ。
体罰逃れの『員数』合わせの『要領』(泥棒)は日本軍の常識だったのです。

『人格を破壊する体罰と、憲法9条の精神』

日露戦争時の与謝野晶子の『 君死にたまふことなかれ』ではないが、子供に対してどこの親も『人を殺せ』とは絶対に教えない。
例外なく『人を傷つけるな』(殺すな)と教えるのです。
殺人は人類にとっての最大のタブーであり、『徴兵されたから』『戦争だから』と、いくら理由付けしても普通の『人』は『人殺し』が出来ない。
戦場で敵兵に向かっ銃を発砲できる人は10人中1~2人程度の少なさで、それ以外の普通の常識や理性を持っている一般市民の兵士では戦場でもわざと銃口を空に向けたり逸らして『殺さない』ように発砲しているのですが、これに気が付いたアメリカの軍人がいた。
この発砲率を改善すれば同じ兵力で10倍近い戦力になる。
アメリカ軍は日常的に殺人訓練(洗脳)することで、『人を殺すな』との人類最大のタブーを克服して仕舞う。
第二次世界大戦時は他国と同じだったが朝鮮戦争当時には50%をこす高率、ベトナム戦争当時には90%を遥かに超える驚異的高率に発砲率を高めたが、何ごとも良いことだけではない。アメリカではトンデモナイ後遺症が起きてしまった。
非人道的訓練で全員が映画ランボーのような優秀すぎる兵士になった、ところが戦場からアメリカ国内に帰ってきても映画のランボーの筋書きと同じで、軍の洗脳教育が解消されず国内の治安が極度に悪化する。社会復帰が出来ないのです。
少し考えれば、これは当たり前である。
現在は一般米軍ではベトナム戦争当時のような極端な洗脳教育(マインドコントロール)は行われていませんが其れでも他国の倍の二十数%の発砲率の高さで、これが原因して国内で無差別の銃乱射事件が多発する。
銃規制に反対する全米ライフル協会(National Rifle Association)の『銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだ』ですが、アメリカより銃所持率が高いカナダの例を見れば間違いではなく、NRAの言い分の方が正しい。
銃による無差別殺人の多発は銃規制の有無の問題ではない。
戦争を肯定するアメリカ人の精神が、根本的に病んでいることが大問題なのです。
旧日本軍の極端な体罰の蔓延ですが個人的でも偶発的でも無く、体罰の横行自体が組織的、意識的なものであった。
体罰は、米軍が新兵に対して行った日常的な殺人訓練(洗脳)で人類の最大のタブーを克服したことと、まったく同じ意味と効果を持っていたのです。
それなら日の丸君が代の強制や憲法9条改正、『日本軍は悪くなかった』と主張する石原慎太郎など右翼が全員例外なく体罰肯定なのは偶然の一致ではない。
憲法9条敵視と体罰の間には密接すぎる相関性があり、『体罰大好き』発言の橋下徹や義家弘介、石原慎太郎など右翼の理論的帰着である。
日本的な右翼思想と体罰の親和性は、何の不思議も無く当然だったのである。
 
『報復されないから体罰が起きる?』復讐するは我にあり

名門の大阪市立高校における体罰によるバスケット部主将の自殺問題に関して、元巨人軍投手で大阪出身の桑田真澄が、体罰は『指導者の力量不足が原因している』、『彼我の力関係が一方的である』『体罰をしても報復されないからだ』との3点を強調。
監督コーチの力量不足が体罰の原因であることは野村克也など多数の指導者も指摘しているが、桑田真澄が主張する『報復されないからだ』は誰も主張していない。
唯一桑田真澄だけですね。他と意見が違うのは。
年長の野村克也とは違い、若い桑田真澄は時間が経過していない分、自分の少年時代の体罰を正確に覚えているのですしょう。
高校1年で常勝PL学園でエースになるくらいの素晴らしい素質があった桑田選手でも、少年時代は毎日体罰を受けていたのですね。
少年たちにとって大人の監督コーチの力は絶対であり、選手には抗う力が少しも無いのですよ。
だからいくら禁止しても体罰が横行する。

『選手に体罰があり、責任が重い指導者に体罰がない』

体罰問題に対して『指導者の力不足』や『彼我の力関係が一方的である』は他と同じ一般的な考えで正しくはあるが枝葉末節、些細な話である。
間違いではないが、体罰の本質からは遠い。
勝利至上主義で、選手は些細なミスでも厳しい体罰がある。
ところが勝利至上主義の自己矛盾としてもっと問題な、重大な指導や采配でのミスでは当該責任者に対して体罰が一切無い。
体罰肯定論の石原慎太郎などがいうように体罰が本当に勝利に有効であるなら、ミスをした選手への体罰よりも、ミスをした監督コーチに対して体罰が行われて当然である。
ところが、『下』の弱い立場の者に対してだけ体罰があり、責任が重い『上』の強い者(指導者)に対しては一切体罰が行われない。
桑田真澄の他とは全く違うユニークな、『采配ミスで試合に負けても監督コーチが体罰を受ける事はない。体罰の横行は、仕返しが無いからだ』(安全だからだ)は実に的確で核心部分である。
いくら体罰をしても『相手から報復されない』。
教育現場での体罰やイジメやシゴキなど関連するだけではなく、他のすべての暴力問題での一番大事な本質を突いた素晴らしい指摘である。

『体罰肯定の橋下徹の公務員いじめの理由』

『指導力不足』や『力関係が一方的』は重要な発生要件(条件設定)であるが、これだけでは決して体罰は発生しない。絶対に起きないのですよ。
彼我の力関係が一方的で『報復されない』から、体罰を行うことが可能なのです。
この彼我の力関係の不平等とは、学校における生徒間のイジメにも共通する問題で、多数対少数の圧倒的な『力の不平等』の関係で陰湿ないじめ問題が発生している。
決して自分たちは相手から報復されない。(安全・安心)だからイジメが段々エスカレートしてしまうのです。
体罰といじめは日本の場合は同じカテゴリーの問題ですね。
教員など公務員イジメが大好きな橋下徹ですが、これも同じ理由で自分がいじめる対象から報復されないから行えるのです。
幾らいじめても公務員が少しも抵抗しないから好き放題、やり放題となるのは必然である。
日本も先進国並みの公務員のスト権など基本的権利を認めれば、この問題は簡単に解決する。

『18歳参政権で高校の体罰は劇的に少なくなる』

いじめ自殺が起きて大津市長が涙の謝罪会見を開いているが、より学校側に責任がある体罰自殺が起きた大阪市の橋下徹市長は謝るどころか、無責任にもすべての責任を教育委員会や学校に転化して、入試の中止を強制、廃部とか廃校で恫喝し一番の被害者である子供たちを罰しようとしている。
言語道断の無責任で厚かましい態度である。
学校の体罰禁止でも実は解決は簡単で、直接の当事者である子供たちに対して『基本的人権を認める』ことに尽きるでしょう。
体罰をなくす観点からも、今後は日本国も世界の常識である18歳(高校3年生)での参政権は是非とも必要である。
相手が子供(未成年)だと思うのと、参政権がある大人(成人)だと考えるかでコーチも選手も双方共に対応は違ってくる。
大人には、子供にはない権利と義務が生じるのは当然であろう。
体罰といえば悪名高い旧日本軍でも、海軍は陸軍ほどでは無かったのですが理由は『報復が怖いから』だったらしいですよ。
荒れた海で船から落ちれば到底助からないが、もともと海の男は気が荒い。一方的にやられ放題では済まさないのです。
これは外国でも同じで、陸兵の反乱の例は少ないが海軍の水兵の場合は昔から艦長など上官の扱いが悪いと反乱を起こすのです。
日露戦争直後の1905年に起きたロシア戦艦ポチョムキンの反乱や1918年のドイツキール軍港の水兵の反乱は有名。
昔からどこの軍隊も水兵の反抗には手を焼いていて、アメリカ海兵隊など陸兵を海軍軍艦に乗せるもともとの目的(海兵隊の役目)とは水兵の反乱防止や鎮圧用だったらしい。

『しごきで人が死ぬ日本の後進性』

『指導力不足』や『力関係が一方的(アンバランス)』の条件下、『報復されない』から体罰は発生する。
体罰と瓜二つで良く似たものに日本独自の教育方針である『しごき』がある。
『シゴキ』を売り物にして客を集めて何人も殺した私設少年院である戸塚ヨットスクールは論外であるが、昔昔の敗戦前は私的制裁で有名な旧日本軍のしごきの話は有名すぎるぐらい有名だった。
敗戦後の民主化で体罰やシゴキは劇的に減少したが一部には残り、何十年か昔はしごきで死んだといえば大学山岳部の話だった。(他のスポーツ部とは逆に、旧制大学山岳部ではしごきは無かった)
最近では時津風部屋リンチ殺人事件のような相撲部屋でのシゴキが問題となっている。
これらの死亡例の共通点は、
(1)死ぬのが一番弱い新人であること。
(2)組織の拘束時間が24時間であること。
(3)組織が『美しい伝統』とか『輝かしい歴史』とか、やたらと『歴史』や『伝統』を強調するところ。
などの同じような傾向があるようです。
(1)は、先輩(コーチ)の力量不足を如実に物語っている。
(2)は、やはり逃げ場が無かったことが最悪の結果を招いている。
(3)は、そもそも、その組織が主張している美しい伝統や輝かしい歴史に、根本的に問題がある可能性が在る。
絆(共同体)文化の日本社会の持つ、近代以前の後進性こそが『しごき』が未だに一部で根強く残っている原因なのでしょう。



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ぼくらの七日間戦争が発刊された頃と、何にも変わってない日本の教育現場 (壊れ甕)
2013-01-22 18:41:38
「酒井君、君もわかっているだろうが、うちも三年前までは、都内でも有名な非行中学だった。
校内暴力、シンナー、登校拒否、不純異性交遊……。
悪と名のつくもので、ないものはなかった」

「そのひどい学校を、曲がりなりにも都内有数の模範校にしたノウハウは何かと、よく聞かれるんだが、そういうときは、信念を持って厳しくしつけることだと言うようにしてるんだ。
そんなことは、教育者ならだれでもわかっとるが、実際にはうまくいかん。
なぜだと思うかね? 」

「みんなうまくいかんのは、子どもを人間と思っとるからだ。
奴らは動物と思えばいいんだ。
犬や馬を調教するように、鞭で仕込めば必ず上手くゆく。
これが秘伝だ。
君たちもよく頭に入れておきたまえ」

このセリフは宗田理氏のジュブナイル小説「ぼくらの七日間戦争」での悪党教師である榎本校長のセリフなのですが、今回の体罰事件のバスケット部顧問の教師も、榎本と同じことを考えていたのではないかと思います。

この「ぼくらの七日間戦争」ですが、作中で酒井敦という教師が生徒に体罰を日常的に行っていたという記述があるのですが、その体罰の内容があまりにも酷い。
口の中に汚れた雑巾を入れて噛ませたり、乳首をつねったり、柱にしがみつかせて落ちてきたらバットで殴りつけたりと、悪逆非道のオンパレード。
親達から苦情が来れば、榎本がPTA会長とグルになって、体罰の事実をもみ消す始末。
さらに榎本は、上記のようなセリフを言っておきながら、選挙の不正に参加するという有様。

それが原因で子供達は榎本や酒井をはじめとした大人達に反乱を起こすというストーリーになっているのですがこの本が発刊されたのが1985年で、この小説が世に現れてから20数年経っても、現実でこのような体罰が行われていたのかと思うと、溜息をつきたくなります。

そもそも現在は昔のような「徹底的に鍛えまくれば肉体も精神も成長する」なんていうスポ根ものみたいな根性論が通用しない時代になっているし、どのように鍛えれば良いのかが科学で証明されている時代になっているのだから、体罰やしごきなどやっても、生徒達の成長に繋がらないということを、教育関係者は知るべきだと思います。
「巨人の星」や「スクールウォーズ」、「GTO」が持て囃されていた時代とは違うんです。

「ぼくらの七日間戦争」では榎本と酒井は別の学校へ異動となるという末路を遂げましたが、今回の体罰事件の顧問の教師には、懲戒免職か解雇処分を下さないと、納得がいきません。
人は理不尽に能く耐えない (くまごろう)
2013-01-22 22:53:05
罰というものは、殆ど教育的な効果はないでしょう。
悪いことをして、それが悪かったと十分納得した上、詰まり教育がなされた後に行われるのであれば、それは周囲にも当人にも贖罪の意味になるが、それがなされなければ単に被害者の応報感情を満たす意味しかなくなる。
そういう贖罪であれば、大抵の人間は生半な苦痛ではものともしない。しかし理不尽な暴力を強いられれば、容易に自分を責め自殺にさえ至ります。

信頼関係の上の体罰なら有効という意見もありますが、信頼関係が築けていればそれこそ教育に暴力など不要な訳で、もし仮に体罰が有効であったとすれば、それは教育以前の躾けができていない段階だったというだけでしょう。現実的に中学や高校生にもなって、暴力などで躾けができるなんてことは考え難いですから、それこそ多大な能力と労力を要する教育でなければならない筈です。
夫は犬と思えばいい (宗純)
2013-01-24 14:15:15
くまごろうさん、コメント有り難う御座います。

簑島高校の尾藤公監督は、大切に育てた農作物が自分の思いどうりに育たないからと踏みつけたりする農家は一人もいないと、体罰の不当性を説明していますが至言ですね。
全くその通りです。
そもそも日本の教育は君子の学問である儒教の影響があったので体罰は無かった。
日本の教育が体罰で汚されるのは明治以降の軍国主義の影響であることは間違いないでしょう。
敗戦以後は随分と体罰は少なくなったが、今でもスポーツ界では横行しているのですが、これは安易な勝利至上主義であるとか、指導者の能力不足が大きく影響している。
大学山岳部のシゴキによる死者までが出る戦後とは違い、
アルピニズムは貴族のスポーツなので敗戦までは逆に旧制大学では他のスポーツとは違い山岳部だけは体罰が無かった。
ところが敗戦後に四年制大学に移行したら山岳部が一番体罰が問題になりだすが、これは上級生の経験不足、実力のなさを暴力で穴埋めした結果です。
圧倒的な力量差があれば、体罰などは無用であるばかりか、邪魔にしかなりません。
山で力がない新人が死ぬのは大間違いであり、かりに山岳遭難が起きても普通なら経験や力量があるリーダーがメンバーを守ろうと無理をする為に犠牲になる確率が高まる。
その意味でも力のない順番で死んだトムラウシ山の大量遭難や片山右京の従業員の死亡は、無茶苦茶なのです。
強いものだけが生き残る弱肉強食の野蛮で残酷なサバンナの掟ですね。
到底山岳遭難とは呼べないレベルで、無理を重ねた挙句の労災事故ですね。
記事にも書いたが、どうも皆さんスポーツの本来持つ危険性や恐ろしい本質を知らないで話をしていますね。
体罰程度の肉体的苦痛などは何でもない。
その程度で死ぬようなアスリートは一人もいないが、今回のバスケット部主将の自殺のように、精神的虐待には案外脆いのですよ。
高濱 正伸の『夫は犬だと思えばいい』ではないが、男はプライドで生きているのです。
今回の自殺だけではなくて、殺人事件でも金銭トラブルは案外少なく、動機の8~9割は体面を潰されたとか面子が立たないなど『男のプライド』が関係しているのです。
教育とは本来聖職ではなくて醜業である (宗純)
2013-01-24 14:27:58
壊れ甕さん、コメント有り難う御座います。

そもそもが教育などというものは本来美しい仕事(聖職)ではなくてギリシャ神話で英雄ヘラクレスに退治される山賊のプロクルステスと同じ事をしているのですよ。
このプロクルステスは普段は宿屋を営んでおり、餌食になった哀れな旅人を自分の鉄の寝台に無理やり寝かせて、旅人の身長を寝台の長さに合わせて切り落としたり、短ければ引き伸ばしたりして『正しい規格に合うよう』にするのですが、想像するだけでもおぞましい行為です。
この無理やり色々違いがある生身の人間を、自分が理想とする『正しい規格に合うよう』修正するいう極悪なプロクルステスの寝台とは、まさに長年の自民党政府、文部科学省の教育方針ですね。
教育者は本来自分たちが人として許されない恐ろしいことをしているかも知れないのだとの、冷静な謙虚さが是非とも必要でしょう。
自分を見つめる冷静さがあれば、今回のような無用な体罰が起きる余裕は有りません。
元凶は天皇制と薩長の田舎893連中 (薩長から政治屋ゴロは出すな!!)
2013-01-24 19:30:51
はじめまして。
さて、早速ですがやはりなんといっても元凶は戦前のイカレポンチ連中(薩長のアホーども、笑)が行った天皇の名の下の大義名分で(貴様らは天皇の、盾になれ!!)という悪しき慣習からきているのでは。とくに明治に大日本武徳会という如何にもなの天皇の兵隊を養成する学校があったのもそのひとつです。だから自分は鹿児島や山口の人間に対してあまりいい印象を持ちません。もし反論するなら、自分の故郷(クニ)の先人連中が如何に天皇の大儀目分のために酷い事をやってきたかを考えるべきだ!!
明治維新ではなくて、王政復古だったスローガン (宗純)
2013-01-25 16:23:44
薩長から政治屋ゴロは出すな!!さん、はじめまして。

明治維新ですが、『明治維新』と人々に言われだしたのは、当たり前ですが政変後の、明治期の話でありこれは市民革命では無かったのですよ。
メインスローガンのそもそもが、革命の意味はなく最初から王政復古や回天だったんですよ。
明治維新と呼ぶから今の人々が日本の歴史を勘違いするのです。
王政復古であると解釈すると色々な事が分かりやすい。
そして薩摩や長州ですが男尊女卑の日本国でも一番保守的な遅れた地域だったし、その中でも王政復古の中心となった下級士族とは一番頑迷な遅れた連中だったのが日本の不幸の始まりです。
高杉晋作の組織した農民などの奇兵隊などが先進的との誤解があるが、これば反射炉などで有名な幕臣だった韮山代官の江川太郎左衛門の農兵のパクリ。勝海舟など都会人が新政府を担ったなら日本の民主主義はアメリカに敗戦後に押し付けられることなく独自に発展していた可能性が高い。
天皇制ですが大義名分として薩長が利用しただけで、天誅組の首領で明治天皇のおじに当たる中山忠光卿を暗殺したの尊王攘夷のスローガンの長州ですよ。
早すぎた悲劇、天誅組と中山忠光
2009年08月17日 | 社会・歴史
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/73111017bb79cdf271c1d5ecdf6ac2fd
アーネストサトウの日記によれば幕府と姻戚関係にある光明天皇を暗殺したのも薩長に近い岩倉具視らしい。
王政復古とは言うが、およそ尊王とは縁遠い正反対の危険な連中ですね。
お久しぶりです~。 (平行連晶)
2013-01-27 08:46:58
>彼我の力関係が一方的で『報復されない』から、体罰を行うことが可能なのです

最近、本田靖春のルポを幾つか拾い読みする機会がありました。
その中に70年代、中東でプラント建設に携わっていた日本企業の社員についてのエピソードがありましてね。
イラン・イラクに赴任して現地人を指揮しプラントを建設する人たち。中でも現場で仕切る土木・建設の監督は、いわゆる職人、技能者です。

こういう職人・技能者たちは現地人に言葉で諄々と作業の手際を説いたり注意するより先に、まず手が飛ぶ。自身も現場でそう「躾けられて」きたのでしょう。
早い話が体罰です。日本でそうしてきたように、序列が下の作業者に体罰を用いた。

しかし、彼らはじきに体罰を止めることになる。
なぜか。

現地人たちは体罰に対して、暴力で反撃してきたからです。現場で監督役の日本人の職人にはたかれたら、高額な重機を故意に河に転落させてお陀仏にする。解雇しようとすれば集団で猛抗議する。
同じく日本人の職人に殴られたら、反撃して腕をへし折ってしまう。倍の暴力でもって返礼してくる。

日本企業は予想だにしなかった現地人作業者からの反撃に震え上がって、現場での体罰を固く禁止したそうです。

体罰が体罰として機能するのは、序列が上位者と下位者の間で共有され、特に下位者に服従の意思があるときに限られるということですね。

>教育とは本来聖職ではなくて醜業である

これは、至言ですね。
承前 (平行連晶)
2013-01-27 09:31:41
暴力で報復といっても、たとえば自殺した体育科の生徒の場合、スポーツ推薦ということで自身の在校条件と将来を共に質草として取られているわけで、暴力に訴えて逆襲するわけにもいかなかったでしょう。
高校時代体罰を忍従して卒業、更にスポーツ推薦で入学するであろう有名私大の体育会で数年間コーチと上級生からの体罰に忍従した者が、その忍従を買われて商社・証券などの企業に「兵隊」として迎え入れられる。

自殺せずにレールに乗っていたらいたで、10代のほとんどを体罰(と称する暴力)に全身浸かったまま過ごすわけです。これで正気でいろと言う方が無理ですわ。

戦後最強のステゴロと呼ばれた花形敬も、少年時代は学業優秀・スポーツ万能のいわゆる「神童」だったのが、士官学校に優先的に進学できる中学(旧制)に通うようになってから、そこが校長の思想により苛烈な軍事教練と体罰の横行する校風だったために「力がすべて」と考えるようになったようです。

しかも大戦末期の「学徒動員」により通わされた東芝工場で上長の工員たちから常習的に理不尽な体罰に曝されました(ただし、規格外の強さを誇った花形は工員たちを片端から叩きのめしていたそうですが)。

序列を背景にした体罰と称する暴力に対して、これに隷従した花形の同期生達の多くは大企業の重役・上級職に就きました。
体罰に対して力で抗した花形は、表社会の序列からこぼれてアウトローになるしかなかった。
体罰は結局のところ、彼を力を恃む者に仕上げただけだった。

これでは、教育は「力なきものは屈服せよ・征服したくば力ある者たれ」と調教する手段でしかないといわざるを得ませんね。
スポーツ推薦 (マトリックス)
2013-01-27 12:27:43
漫画『スラムダンク』でも、たしか安西先生が鬼コーチで大学の監督をしていた時に、身体の故障か回復不能のスランプで悩み抜いた学生が自殺したのをきっかけに、鋭い観察力を持って高校のバスケ部の学生に細かく的確な指導をする方針のコーチになったという設定であったのを思い出しました。

体罰が有効に作用するのは、指導者が高潔な人間で学生の立場を理解している場合で、バスケが生きがいの学生に高校3年生で二軍になれ(イコール、大学のスポーツ推薦の可能性もゼロに)というのは、最悪の事態を招く可能性があるのを体罰をしていた教師はどう思っていたのか?

スポーツ推薦という仕組みが、教育において百害あって一利なしだと思いました。
Unknown (ミンスとイグック)
2013-01-28 22:13:02
> そもそも近代スポーツの起源は18世紀産業革命期の英国での、
> 賭博や暴力と紙一重の流血を伴う危険で苦しいブラッディスポーツなのです。

こいつのソースは、松井良明の「近代スポーツの誕生」(講談社現代新書)ですか?
玉木正之あたりがとなえるアンチョコなスポーツ=エンジョイ思想を振りかざすよりは、事の本質に踏み込めそうですね。

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