正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」小麦キャンペーン始まる―学校給食の農村普及事業

2013-11-13 | 食事教育

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」小麦キャンペーン始まる―まずパン屋をそだてよ-2」の続き

アメリカがどの様に日本に小麦を売り込み日本の政治家や官僚がどの様に過ちの道に踏み言ったのか、その証言を聞いてください。

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」小麦キャンペーン始まる ー学校給食の農村普及事業

 リチャードーバウム氏が、日本ですでにスタートしている学校給食に目をつけないわけはなかった。

 昭和三十二年七月、彼は財団法人・全国学校給食会連合会(文部省所管)との間に、五七三五万円で学校給食の農村普及事業に契約調印している。まだ普及が遅れている農村部の小学校にまでパン給食を拡大させこうというのが事業の狙いであった。

 この頃、日本の学校給食は始まってからちょうど10年が過ぎようとしていた。ここでその足どりを簡単にたどっておく必要がありそうである。

 戦後初めての学校給食は、昭和二十一年十二月、GHQの支援で東京、神奈川、千葉の学童二五万人を対象に試験的に実施された。世間では、この時からマッカーサーにパン食奨励の意図があったとする見方もあるようだが、それはどうも無理がある。当時は世界的にたいへんな食糧不足であった。マッカーサー自身、「日本にもっと食糧をまわせ」と何度も本国陸軍省とやり合っており、とても深慮遠謀を考える余裕はなかった。学校給食を発案したGHQのサムズ大佐は農林、厚生、文部、大蔵の各省幹部をよび集めて、「米とみそ汁で給食はできないものか」と切り出した。この時、厚生省の伊藤次官につき添って列席した大礒敏雄氏の証言によれば、「とても学童にまわす米はない」と片柳真吉食糧庁長官が答えたという。

 結局、ララ(LARA・アジア救済公認団体)委員会のローズ女史の奔走もあって、横浜の倉庫にあったララ救済物資をあてて、ともかく学校給食事業はスタートを切る。はじめ三都県の試験事業であったが、翌二十二年から全国の都市部の小学校にも拡大される。しかしこれは、あくまで副食と脱脂粉乳を中心とした補完給食であった。

 主食パンを含めた完全給食が大都市だけの措置として登場するのは、GHQから小麦粉が無償放出された昭和二十五年二月からのことである。朝鮮戦争が勃発する寸前で、小麦が余りだしていた時であるからアメリカが余剰処理として「パン食普及」を意識したとすればこの頃であろうが確証はない。ただ、この時GHQのとった態度で気になる点はある。

 アメリカの無償小麦を得てパン給食をスタートさせた文部省当局は、この完全給食を八大都市から全国の市制地にも拡大したいと考えた。しかし、この計画に対して総司令部は、「日本政府が今後ともこの完全給食を強力に推進する確約を得なければ許可しがたい(傍点-筆者)」と通告しているのである。そこで文部省は、昭和二十五年十月二十四日に「学校給食は重要な役割を果たしている。日本政府は将来これが育成に努力を払う(『学校給食十五年史』昭和37年発行)」という閣議了解をとりつけて、総司令部に回答している。

 こうして、二十六年二月から完全給食は全国の都市部に拡大されることになるが、アメリカの小麦贈与は同年六月をもって打ち切りとなった

もっともこの小麦は、贈与とは言ってもガリオア資金(占領地救済資金)をもとでにしたもので、のちになってツケが回ってきたものであった。たった一年で″贈与″がストップされたのは、その財源であるガリオア資金が日米講和によって根拠を失ったためであるが、実際のところ、その一年の間に三八度線の風雲が小麦需給を逼迫させ、アメリカにとってこうした贈与による余剰処理を継続させる必要性がなくなっていたのである。

 全国一斉の完全給食を始めた矢先に、その供給財源(ガリオア資金)を絶たれた文部省当局は大いに慌てた。閣議了解事項をもってGHQに約束をしている以上、いまさら給食を止めるわけにはいかない。かくして、日本政府は全額国庫負坦で小麦、ミルクを購入して給食継続をはかったのである。この時、大蔵大臣の池田勇人氏は、「給食の国庫負担は打ち切り、生活保護など別途の面で考慮すべきである」と主張して、文部大臣・天野貞祐氏と対立している。

大蔵側の意志は強く、翌二十七年度からは全額国庫負担制度は、小麦粉のみに半額国庫負担をする形に変わる。このため、父兄の負担は急増し、全国で3000校・210万人の児童が給食から離れていった。教育の現場から「学校給食の危機」が叫ばれ出した昭和二十八年、十三号台風などの風水害と稲の大凶作がつづけざまに発生した。各地にあらわれた欠食児童の救済が社会的大問題に発展する。学校給食を法制化する気運が急速に盛りあがり、米の神様・荷見安氏もその戦列に加わった。

  こうして、昭和二十九年五月三〇日、学校給食法は国会を通過し「小麦粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されるのである。この陰に、アメリカ側からの働きかけがあったかどうかは定かでないが、学校給食法の成立をアメリカが喜んだであろうことは想像にかたくない。 あのゴードソーボールズ氏が、「余剰小麦処理」の大統領特命を受けて東京にやってきたのは、まさに学校給食法が成立する前夜であった。

 この国会で文部大臣・大達茂之氏は提案理由の説明の中でこう述べている。

 「わが国の現下の食糧事情から申しまして、今後国民の食生活は、粉食混合の形態に移行することが必要であると思うのでありますが、米食偏重の傾向を是正し、また粉食実施に伴う栄養摂取方法を適正にすることは、なかなか困難なことでありますので、学校給食によって幼少の時代において教育的に配慮された合理的な食事に慣れさせることが国民の食生活の改善上、最も肝要であると存じます」

 いま改めてこの文章を読むと、学校給食がまさにその法の狙いどおりの役割を果たしたことに驚く。「幼少の時代から粉食に慣れさせられた」給食経験層がいまや国民の大半を占めようとしているのである。

 学校給食法が制定されて間もない十月、愛知・東畑使節団はアメリカの余剰農産物の買い付け交渉に出発する。文部省当局者にとっては、彼らがどれだけの小麦贈与を引き出してくるかが最大の関心事であった。

 この時アメリカのハラは決っていた。無料の小麦というエサをぶらさげて、太平洋の中から「粉食に慣れようとする幼少」の胃袋を、釣り上げようと考えていたのである。その証拠にアメリカは贈与する小麦と脱脂粉乳は学校給食に使用することとまず限定し、次のような約束を日本側から取り付けている。

(1)アメリカは給食用小麦を四か年間に、四分の一づつ漸減して贈与する(初年次一〇万トン、四年次二万五〇〇〇トン)。

(2)日本政府は、四年間にわたり年間一八万五〇〇〇トンレペルの小麦給食を維持すること。(『現物贈与の細目取扱に関する日米交換公文』昭和31年2月10日)

 つまり、アメリカは無償供与をだんだん減らしてゆくが、日本は給食の規模を縮小してはならないというのである。それでも文部省、大蔵省は大喜びであった。事実、この贈与受け入れが始まった昭和三十一年度から、半額国庫負担の時代に終止符が打たれ、政府補助は小麦一〇〇グラム当り一円という安上がりの学校給食となっている。

 リチャードーバウム氏らの小麦市場開拓事業はこうした時代にスタートを切った。学校給食については、いわばすでにレールが敷かれていたのである。彼らはこの既定路線を補完強化することだけを考えればよかった。

 昭和三十二年七月、オレゴソ小麦栽培者連盟は全国学校給食会連合会と契約して、学校給食の農村普及事業を開始させた。すでに学校給食法が制定されてはいたが、これは義務法ではなくあくまで奨励法であったために、給食実施校は都市部に限られていた。バウム氏は、普及の遅れている農山村にまで学校給食を広めようと、文部省に話をもちかけたのであった。文部省当局にとっては願ってもない話であった

当時、学校給食係長であった河村寛氏(現日本学校給食会総務課長)は「最も遅れている農村児童の栄養水準こそ高めなければならなかったのだから、アメリカの話に飛びついたのです」と語っている。農村地域の未実施校の中からまず一五〇校が普及セッターとして選ばれた。この一五〇校を普及拡大の核として、教師や父兄を集めた講演会、給食献立試食会が盛んに開かれる。講習会場では映画『よろこびを共に』やスライド『学校栄養士の一日』が上映され、普及用パソフレ″ト『学校給食のすすめ』が大量に配布された。文部省学校給食課の担当官や大学の教授連が教壇から「パン食の効用」を説き、農村ではめずらしいコッペパンが学習机の上に並べられた。学校給食を知らない農村の父兄たちに与えた効果は絶大であった。

 この事業と並んで、アメリカは三〇〇台のミルクーミキサーを全国の給食未実施校に寄贈している。好評を呼んだ農村普及事業は三たび更新され、昭和三十七年まで続けられた。講習会等への参加者は二三万人であった。文部省が昭和五十一年に発行した『学校給食の発展―三十年史』では、「この事業は農山村地域の学校給食普及に大きな役割を果した」と評価している。

 私たちは東京・虎の門の日本学校給食会を訪ねて、当時の機関紙『学校給食広報』を見せてもらった。昭和三十二年から三十四年にかけての各号は、この農村普及事業の記事で一杯であった。「宮城の講習会、予期以上の盛況」とか「四ヶ月間に四万人が参加」と見出しが並び、北海道から九州まで各地の講習会の模様が写真入りで報じられている。子供の座る小さな学習机に農民らしき父親がチョコンと腰をかけて、めずらしそうにコッペパンをかじっている写真が印象的であった。機関紙のファイルを何枚かめくっていると、「アメリカのベンソン農務長官が学校給食を視察」という記事があった。昭和三十二年十月二十八日、来日中のベンソン長官が埼玉県大宮市の東小学校を訪れた時のものである。おそらく、あのキッチンカーに同乗して、うどんを食べたのもこの時であろう。余剰農産物処理に関するアメリカの責任者として、彼はその運用が日本で有効になされているかどうか視察しにきたのである。ベンソン長官はこの小学校で全校児童を前に、次のようなあいさつを行なっている。

  「日本の学校給食計画は世界でも最も優れたものの一つとして認められています。この計画は、みなさんの栄養水準をいま高めると共に、将来大人になったときのために食生活改善の習慣を身につけさせておくという意味も持っています。

  私はまた学校給食計画について、もう一つの意義を認めるものです。それは日米両国の貿易の促進にも役立つということです。みなさんが給食に使用している典型的な食品の中には、アメリカから送られたミルクや小麦粉なども含まれています。これらの食料品は、日本国民の食生活に大きく寄与するもので、我々は日本に対しこのような食料品を供給できることを喜んでいます」

 このあいさつを受けて、六年生の金井雅子さんが代表で歓迎のあいさつを述べている。

  「私たちは、アメリカから送っていただいた小麦とミルクの栄養のおかげで、戦前の子供たちと比べて見違えるような丈夫な身体になりました。

 喜んでいるのは私たちだけではなく、家の人たちも同じようにパンが好きになりました。これからも身体をますますきたえて、アメリカのお友達と一緒に平和な世界のために尽してゆきたいと思います

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