好奇心全開!!遊行期を遊ぶ

 遊行期も今から上り坂、やっと命の不思議に目覚めたような感じです。
 玄牝の門を敲きます。

老仁のTAO 第15章 <新しい人>はいつだって自分の中にいるよ

2005-03-06 13:08:53 | パラダイムレボリューション
 『TAO 第15章 顕徳』

 春雷に呼び覚まされた愚仁の中の<新しい人>を思っていると、祥造さんのTAOの言葉が浮かんで、雪のように踊り始めました。仁もつられて、雪になり、雪と一緒に踊ってみました。雪のように小さくなって、雪の結晶さんたちの虹色の舞いを見ながら、自分も雪の結晶のように舞っているのでした。音楽や芸術と無縁に生きてきた愚仁ですが、なにやらコスミックなリズムを体感しているような気がします。
 その後で、祥造さんのTAO第15章を読んでいたら、自ずから言葉さんたちが湧いてきて、踊るようにメッセージを発信しています。おもしろいんで、それを記述してみました。記述が追いつきませんでしたけれど、そのメッセージはもっとシンプルで、おっとなるほどと感心していたのですけれど、記述の段階で、愚仁の解説に変わってしまうようで、ちょっとがっかり、色あせてしまいましたが、紹介してみます。


昔からたくさんのTAOと友達になった人がいるけれど、
その人たちはちょっと風変わりで、人生の達人と呼んでもいいよ。
見た目は隣のおっちゃんだけど、
あるいは無邪気に山野で遊びまわっている子どものようだけど、
つき合ってみると、奥が深いんだ。
どこまで行っても先が見えないくらい大きいよ。
達人さんたちの世界は銀河のようなものだね。

そんな大きな人たちが昔も今もたくさんいるんだよ。
あんまり大きすぎて、あんまり深すぎて、つかみとることはできないけれど、
あえてこんな人だよとイメージできるように例えてみるようね。
TAOと友達な人を「TAOな人」と呼ぶことにしてみよう。
「TAOな人」はあなたの中にもちゃんといるんだ。
不器用で、ナイーブだけど、
空気のように気づかないことが多いけれどね・・・

TAOな人は、まず、目立ったことはしないね。
人の後ろからついて行くんだ。
だから、自分がどうすればいいかよく見えている。
要するに、慎重なんだ。いいかえれば、よく学ぶ人なんだ。
自分がどこにいるかよく知っているし、
自分の周りのことをよく知っているから、
危険な冬の川を渡ることだって、普通に、できるんだよ。

人と交わる時でも、世間とつき合う時でも、
いつも知らない森の中を歩く時のように、
一歩一歩、確かめながら、進んでいくんだよ。
トゲを踏んで怪我したり、毒虫に刺されて熱を出したり、
獣に襲われてひどい目に遭うのが恐いからね。
知ってるつもりにならないんだ。
信じているふりはしないんだ。 
 
どんな立場の人とでも同じスタンスでつき合うんだよ。
お偉いさんに媚びたり、卑屈になったり、
弱い立場の人を蔑んだり、いじめたりしないんだ。
あるがまんまの自分のままで、
自分を大切にするように人を大切にするから、
心は乱れることもなく、心は驕ることもなく、
客人のように穏やかでいることができるんだ。

だからTAOな人とつき合っていると、
自分も、だんだん素直になって、
警戒心も緊張も、不安も欲も消えていくよ。
氷が溶けるように、
心のバリアが解けていくんだ。
拘りを消し去ってくれる人と時空を共にできると、
とてもハッピーになれるんだよ。

ほんと、TAOな人って素朴な人と呼び替えてもいいくらいだよ。
飾りっ気はなく、おしゃべりでもなく、
目立った才能をひけらかすわけでもない。
山から切り出した材木が、
荒削りのまま、無造作に放り出されている材木置き場の
材木の一つのようなものなんだ。
そんな材木あなたの中にあるでしょう。

荒削りの材木だから、何にでも創りだすことができるんだよ。
出会った人に合わせて、何にでもなるんだ。
そんな大きな心を持った人がTAOな人なんだ。
例えていえば、深い深い谷のようなものだ。
谷は宇宙の気の集まるところ、
地球の気の放射されるところ。
空即是色の人間劇場と呼んでもいいよ。

ともかくも、TAOの人には何でもありだね。
好きなものも嫌いなものも、美しいものも汚れたものも
ごったごったに自分の中にあるでしょう。
TAOな人は下流の濁った川の水のように、
流れ来るものは何でも受け入れる寛容な器なんだ。
何でも受け容れて、ごちゃごちゃ混沌としているけれど、
いつのまにかそれぞれが所を得て、清らかに澄んでいくのだ。

また、山河のように穏やかで、安定していて、
けれど自然の営みは休むことなく、
さまざまないのちを育み、天地を動かして調和を保つのだ。
そのようにTAOな人も穏やかに人の中にあって、
いのちとこころの深いところでつながっているから、
人と共に動き、人と共に苦しみ、人と共に喜び、
人と共に幸せを生みだしていくのだよ。

少しイメージできたかい?
TAOな人を自分の中に見つけることできたかい?
このようにTAOな人として生きていく人は
いつだって満足というものを求めようとしないものさ。
生々流転のエネルギーそのものだから、疲労さえ知らないんだよ。
いのちが新陳代謝するように、自分がボロボロに使い尽くされても、
そのボロボロのまんまでまた<新しい人>に生まれ変わっていけるんだよ。


木乃実さんのマスターへの道

2005-03-06 00:30:38 | パラダイムレボリューション
 <「真っ白な年、まだ未来は心(ここ)の中。素敵な未来を思い描くと、きっと素敵な未来が足音立てて遊びに来ますよね」って、いいフレーズですね。
アメリカのお医者さんでディーパック・チョプラという人がいるのですが、彼によれば、私たちは太陽と同じようにそれぞれ固有の光の波長を持っていて、心で思い描いていることが波となって現実の世界に波及して、その波長と同じ現実を引き寄せるらしいです>
 光の先輩さんたちのメッセージを読みとる力を得た木乃実さんがいて、読みとる力は共振だから、共振の中で波長が同じになっていくんでしょうね。光が波動であるように、愛もまた波動だから、光さんたちの愛は木乃実さんの愛となって生命を得ることになる。命を得た愛は波動としてあらゆるものに分け与えられるでしょう。波動は時に生きるエネルギーとなり、時には道しるべの言葉になり、時には愛のドラマになる。一つぶの滴は流れて、大河になり、大河は雲となって山に戻るんですね。降りては昇り、降りては昇り、多くの光さんたちが、星のように瞬き、太陽のように燃え、銀河のように広がっていきます。
 聖マリア病院で診察を待つ間、洞ののマリアさんを見ていました。雪が降りかかります。風に舞う雪さんたちが光さんに変わるような気さえします。変幻自在の舞いを幻想さえするのです。それらはみなマリアさんから解き放たれているような気もしました。マリアさんが佇んでいる洞は雪も届かず暗いのです。その暗さの中から波動が吹き出していて雪と光を舞わせているのでしょうか・・・。<天と地の出てきた神秘の門、あれを開いて、母と遊ぶことができるんだ>そういう思いをもちながら、祥造さんのTAO第10章を読んでいたんです。昨日、<もう先輩さんたちの言葉か木乃実さんの言葉か区別がつかないほどに木乃実さんは光さんたちの世界になじんでいた。どうしてこんな奇跡が起きるんだろう・・・。>と不思議に思っていました。でも、答はすごくシンプルだとわかりました。<われら心と肉体を持つものは、ひとたびタオの道につながれ、体と心は離れないようになる>。素直に戻れば玄の力が湧いてくる。直観で感じたように、セドナの旅が木乃実さんのバリアを解き放ってくれたので、木乃実さんは神秘の門をくぐることができたんでしょうね。玄の又玄。<ひとの玄(おく)にある深い力が、いちばんよく働く>ところに木乃実さんは行くことができたんだ。
 <やっとここまで来たね>、セドナの旅で木乃実さんを初めて迎えてくれた天の声です。そして、今、<「よく来たね。つらい思いをして、手放して、よく来た」>と迎えてくれる天の声があります。マスターになるには資格試験があるのかどうか愚仁は知りませんけれど、「よく来たね」はマスターの世界の市民権を獲得した人へのねぎらいの言葉なのではないでしょうか。・・・木乃実さんは、光の先輩さんたちのメッセンジャーなのではなく、光の先輩さんたちの仲間入りをしたひとりの光さんになったのでした。
 貫いて我を撃ちたる春の雷    仁
 遠くで轟く春雷が鈍く鈍く近づいてきて、足元に舞い始め、そして螺旋状に舞いあがって、脳天を駆け抜けていきました。外に目をやると洞のマリアさんに雪は同じように舞いかかっています。愚仁は木乃実さんというマスターに出会っているように感じました。
 数十日前、鈴音さんというTAOな人に出会い、弟子入り志願をして、鈴音さんから弟子入りを認めてもらったばかりです。二人の師を持つなんて不届きで、罰当たりなのでしょうけれど、学びの喜びはかけがえのないものですから、この喜びをあたえてくれる人は老仁にはかけがえのない師なのです。欲張りですけれど、もっともっと、たくさんの師に出会えるようにシンクロニシティの旅を続けたいと思います。シンクロニシティの旅はフローの旅と呼び替えてもいいのかなぁと思っています。

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