アーダ、コーダ、イーダ!

浮かんでは消えていく想い。消える前に名前をつければ、何かにつながるかもしれない。何処かにいけるかもしれない。

キツネ派、タヌキ派?

2006年12月11日 19時01分05秒 | Weblog
 佐藤ゆかりと野田聖子の争いが、今後どう展開していくか。どうも二人の映像を観てるとキツネとタヌキみたいで、それが面白さに拍車をかける。佐藤ゆかりは明らかに焦っていることが見て取れる。節操を失ったオバチャンは見苦しい。もっと落ち着いて欲しい。野田聖子は落ち着いているように見えるが、それは政界をよく知ってるからなのか、それともここまで来たらと腰を据えたのか、それともそういう人なのか。どうなるんでしょうか?

生き方、死に方

2006年12月10日 16時04分03秒 | Weblog
 カウントダウンの生命に差し掛かった。たかおさんが、優しいコメントを寄せてくれたが、煩悩のためにそうしたんだな。
 来年夏に演劇集団を立ち上げる。多分舞台に立つ。そのためには体調を万全にしなければならない。2時間出ずっぱりの舞台。舞台に立つ。それがなければ、健康なんて考えない。むしろ、煩悩は深まっているのだ。
 肝心なのは、私の感触。感触がなくなると、流されるだけだ。自分を大切にするということは、健康よりも私の感触だ。その感触はタバコでも、酒でも、仕事でもなく、演劇だ。

飲酒運転撲滅DVDに出演

2006年12月09日 02時05分03秒 | Weblog
 合縁奇縁、何かの因縁か、そういうものが制作されるらしく、その一部の撮影に行き、さっき帰ってきた。学校を出る前に、教頭にそういうものに出るが何か許可が要るのかと訊いたら、「一番危ないあんたが出るのが面白い」の大笑い。褒めてくれてありがとう!
皆さん、酒を飲んで運転したらダメだ。
 もっとも、ぼくはタバコをやめて、酒を飲むとタバコが欲しくなるので、酒も減らしている。それで何をするか。朝、風呂にゆっくり入る。汗が出るまで湯船につかり、その間、色々と考える。生活に余裕ができつつあるということか。

禁煙3日目

2006年12月08日 03時29分19秒 | Weblog
 タバコをやめることにした。精密検査やらで、また風邪とかで、医者にここ一ヶ月で何回も言われた。しかし、医者ふぜいに言われたくらいでやめるのは悔しいので、ふっとそう思ったのをきっかけにしよう、あくまで自主的なものにしようとしたのだった。
 酒を飲むとタバコを吸いたくなるので、酒も飲んでいない。生徒には話した。だから学校では吸えない。家族にはまだというところが、逃げ道を作っているイヤラシサを感じるので、今朝宣言しようと思う。
 さて、どうなるか。

男子教師は一日スカートで過ごせ!

2006年12月06日 20時40分11秒 | Weblog
 朝、生活指導部から「女生徒のひざ掛けをやめるように朝のHRで指導して下さい」とのこと。手を上げる。「何故悪いのかをきちんと説明しないと生徒には伝わらない」から返答を求めた。笑った。「ひざ掛けは制服の中には入っていないからだ」と。
 そんなことは生徒は分かっている。寒さに対してどうするか。その辺を考えてやることはできないのか。何故、杓子定規にNOを並べ立てるのかな。
 以前、ある校長が全校集会に防寒着を着せるなと言い、根性が足りないと言った。お前、根性で南極の氷を溶かしてみろよ。溶かしたら、根性の力を信じようと言った。寒いのは仕方ない。ひざ掛けで授業に集中できるのなら、いいじゃないか。それが分からないのなら、学校の職員全員が一日スカートで過ごせばいい。変態集団だ。想像力が欠如してる。

山本譲二は歌手としては続かない

2006年12月05日 21時50分28秒 | Weblog
 髪を乾かす時、たまたまテレビで山本譲二が持ち歌をアカペラで歌っていた。ラリルレロの歌になっていて、ああこの人は生活のどこかが壊れているのかもしれないと思った。
 才能を支えていくには不断の努力が要る。松井、イチロー、とかの例以上にも無数にあるだろう。
 自分流になってしまったら、おしまいだ。相手は変わる。それを感受できないで、繰り返しは、まずい。目の前の顔が変わる。ならば、その変わることを楽しめばいい。歌手は自分がどう歌うかだけでなく、それを聴いた人がどう思うかまで計算すべきだろう。お前、プロだろう。

距離の取り方

2006年12月05日 17時37分16秒 | Weblog
 演劇では、相手役との距離で台詞の言い方、声の大きさ、演技が決まると言われている。最近の生活ではその「距離感」が失われているように思う。特に生徒と教師の距離感はメチャクチャではないかと思う。生徒の言い方に「オレは君の友達の一人か」と返すことがある。たいてい、「・・・ですか」と言いなおす。
 娘の授業参観と懇談会で担任の先生が、挨拶や言い方に対して厳しくしていることを聞き、いいことだと思った。国語・算数・理科・社会以前に、きちっとできなければいけないことだと思う。
 ぼくが小学校の頃、廊下からやってきた先生に挨拶をし、すぐに階段を下りてきた先生に挨拶して、教室に入ったら、担任に呼ばれ、「続けて挨拶するな!」と、指示棒の持つ所の方で頭を叩かれた。痛かった。以後は、一方だけ見て、他の方向は無視することにした。
 何か悪いことをしたら、叩いてくれて結構だ。大人も教師も、子どもの頃は理不尽な存在だと思うことがあった。年がら年中子どもの視線に下りなくていい。大人や教師が下りるから、それが当たり前だと、ガキがのぼせ上がる。のぼせ上がった子どもに言葉は効力を失う。理不尽な痛みを通して学ぶのではないか。
 文科省や教委に恃んでも仕方ない。自分の子どもは自分で育てる。その一助としての学校。それくらいに考えた方がいい。そうなれば、親は子どもをもっと見るようになる。考えるようになる。学ぶようになる。卒業式は子どもだけのものではなく、一緒に歩んできた親のものでもあるのだ。

本を処分する

2006年12月04日 20時04分52秒 | Weblog
 読まなくなった本を集めて、一冊10円で配布して、そのお金を歳末助け合い運動に寄付する。図書委員会がそういう企画を立てたので、乗った。
 毎日、20冊前後の本を持っていく。そのうちに意地になって、押入れを引っ掻き回し、可能な限り処分しようという気持ちになってきた。以前、初めて処分した時は身を切られるような思いだったが、本は所有することではなく、肉体化(大袈裟か?)することに意味があると思うようになった。
 この春演劇関係を300冊ほど処分した。引き取る人間がいたので、自宅まで来てもらい、飲んで、翌日帰りに車に積んで、プラスはない。それでも、まだ、邪魔になる。それで、今回は、思い切って、「絶対必要」を目安にした。かなり処分できるはずだ。
 以前は、子どもに読ませたいという本があった。でも、彼女達は好きなものを手に入れて読めばいい。親父のアブクダマは、親父で終わりだ。一冊との別れ以上のものがある。

喪失、その感覚の喪失

2006年12月01日 23時32分42秒 | Weblog
 人間は何を得れば満足するのか。
 性と食と身の回りが他より優れていること、金がかかっていることなのか。
 幸せ。
 そのことにもっと自分で考えていい。
 今生きていること。生きて、近くに人がいること。家族や友達やお節介な連中がいること。それが幸せなんだ。大切なことはその感触。その感触で生きて行こう。

政治に云々はやめた

2006年12月01日 22時02分36秒 | Weblog
 もう政治には何も期待できない。だから、もっと身近なところから全てを考えようと思う。安部さんも、小泉よりマシとは思ったが、意味不明の「美しい国」の繰り返しだけ。小泉はコーフンと変人を通しただけまだマシだったか。どっちも同じ穴。所詮、自民党は体質の集団でしかない。
 ただ、タウンミーティングのオソマツな会計に対しては腹が立つ。税金がそういう使われ方をしていることに、ぼくらは何処に訴えればいいんだ。詐欺罪、国民愚弄罪で訴えたいが、どうせ国の庇護で終わる。
 美しい国という訳のわからないキャッチフレーズしかつくれない首相は無能だ。日本国民の一人一人が生まれて、住んでよかった、そう思わせる政策をできないじゃないか。小泉の尻拭いと強いものへのテコいれだけ。お疲れ様!