アーダ、コーダ、イーダ!

浮かんでは消えていく想い。消える前に名前をつければ、何かにつながるかもしれない。何処かにいけるかもしれない。

となりのトトロの素晴らしさ~ある日の学年通信より~

2006年06月04日 17時35分57秒 | Weblog
 最近こそ余り観ないけれど、昔は一週間に多い時で4,5本の映画を観ていた。今も、時々猛烈に観たくなって、ビデオを借りに行くけれど、どうにも時間がなく、観ないまま返すこともあり、勿体(もったい)なさとやりきれさにウンザリすることも少なくない。
 さて、ぼくが今まで観た映画のベストワンはダンゼン、
『となりのトトロ』
と言うと、生徒は笑い、オトナは少々呆れ顔。人相の悪いオッサンとは不釣合いだからか、それとも、子ども向けアニメがたとえば『ギルバート・グレイプ』や『海の上のピアニスト』や『七人の侍』よりも上だと考えるのはどこか思考経路に問題があると考えているのだろうか。どちらも正しくない。送り手がいれば受け手がいる。内容はどうであろうと、それが表現の世界での前提だ。送り手の考えや感性も多様なら、受け手もまた同じ。何をどう受けるか、それは大きなお世話というものだ。
 さて、呆れ顔のオトナやクスクス笑いの生徒にぼくは訊く、
『となりのトトロ』で最初に出てくるものは何?
今までそれに正解が出たことはない。もう千人は超えていると思うが、ゼロ。トラックだの、木だの、その辺の答が多いが、正解は出ない。バカモノ!
正解は、
「わすれものをとどけにきました」
という一文なのだ。
オイオイ、子どもが忘れ物をしている訳ないだろう。だって、『トトロ』の舞台は半世紀近い昔の田舎(いなか)だぞ。そういう世界を知っているのはオトナ。忘れ物の届け先はオトナなのだ。つまり、『となりのトトロ』は大人向けの作品ということになる。それも、オジサンやオバサンくらいの年季の入ったオトナ。彼らや彼女たちが子どもの頃見たり、聞いたり、経験した、そういうものがふんだんに出てくる。
 忘れ物をした大人には、当たり前だが、トトロが見えない。
 マックロクロスケに遭遇(そうぐう)したサツキが荷物を運んでいる父親に言う、
「お父さん、この家何かいるよ」
それに父親は、
「そうか、お化け屋敷に住むのがお父さんの夢だったんだ」
と応える。しかし、その後の風呂場のシーンで、
「明るいところから暗いところに入ったから・・・」
と父親はマックロクロスケを科学的に処理してしまう。子どもの頃は彼もトトロが見えていたかもしれない。いや、見えてた。しかし、今は見えない。トトロにもらった種を蒔(ま)いて、数日後の夜、大中小のトトロとサツキとメイが声を出して木々の「成長祈願」をしているのに、論文を書いている父親は全く気付かないではないか。彼はわすれものをした、ぼく達オトナの代表なのだ。
 だから、最初にトトロを見るのが一番幼いメイなのは当たり前だ。メイは目の前に現れるものに何も疑わないからだ。しかし、実は、サツキの方が早くトトロと出会っている。タキギ(こういうもの、知ってるのかナ、皆さん・・・)を取りに外に出た時に、彼女は一陣の風にタキギを取られ、怖くなって急いでタキギを拾い、家の中に駆け込む。あの風、あれはトトロが飛んでいたんだよね。五月の歳になると危い。
 宮崎駿は実に巧妙で、トトロが出てくるシーンの前後では必ずサツキかメイが眠っているシーンを入れている。あれは夢なんですよ、と、言い訳でもするかのように。ただ、別に夢でも構わないと思っているのかもしれない。そこからは受け手の自由な解釈でいいですよ、と。
 宮崎駿の『トトロ』次の作品『魔女の宅急便』では、ヒロインのキキが魔法を使えなくなるが、その辺が、どうも、トトロの存在を信じるかどうかということとリンクしているような気がしてならない。結局、キキは街角のおじさんのデッキブラシで飛ぶことができるが、そのシーンと迷子になったメイを助けるために五月がトトロに助けを求めるシーンは、ぼくには重なってくる。
 『トトロ』にはストーリーといえるほどのものがない。ただ、忘れ物をしたオトナには雄弁に語りかけてくる。作品の優劣は送り手と受け手が共有できるものの量で決まるとすれば、『トトロ』は名作だ。名作は作ることができない。名作は生まれる。生まれた『トトロ』が作られた『もののけ姫』を凌(しの)いでいるのは当たり前だ。『もののけ』より『千と千尋の神隠し』の方がはるかにいいけれど、『トトロ』の単純明快な爽快さには及ばないと思う。
 皆さんは、もう「わすれものを届けられる」オトナになりつつあります。歳を取るということは何かを手に入れることです。でも、同時に何かを失うのです。人間が手に持てる量には限りがあるからです。何かを持とうとすれば、持っている何かを手離さなくてはならない。オトナになるということはコドモの部分を手離すことかもしれない。でも、「コドモの心を持ったオトナで、オトナの知性を持ったコドモ」の幸せな融合(ゆうごう)の人間は少なくありません。ぼくが知っているその代表は妹尾河童(せのお・かっぱ)さんです。彼のことはいずれこの紙面で扱うことになると思います。
ともかく、『となりのトトロ』をもう一度観て下さい。
わすれものを受け取ることができるかどうか。
 最後に、宮崎駿はトトロの存在を信じていたか。ここまで読めば、YESだと分かりますよね。彼はトトロを信じている。ぼくは断言します。(ぼくが断言しても仕方ないか・・・) 
 じゃあ、トトロは何処にいるのでしょうか?