Plumの思い出日記

愛馬クォーターホースのsweetplumと一緒に過ごした16年間の思い出&希少癌と難病患者の独り言

馬の思い出10~同好会発足

2005年02月10日 00時00分01秒 | 蹄跡

1989年~冬から初夏にかけて

M永が去ったクラブにはN道とまー坊君が中心となり同好会を結成しようと話し合った会員が残った。経営者がK氏というのは名目上のことで実質の運営は自分たちだけで行わなければならなかった。きー坊が自分の馬(コレキヨ)も置いていたこともあって毎日クラブの馬達の飼い付けを担当してくれていた。私達もできるだけクラブに顔を出し馬房掃除や馬の運動などの世話をした。
メックルディの死がM永のせいだと思っていたいずやんは、あれからほとんどクラブに来なかったが、N道が戻ってから頻繁に来るようになり、長い時間を過ごすようになっていた。今までは私達の自馬のエルマルソに乗ることもなかったのに・・・皆がクラブを何とか盛り上げようと一生懸命だった。馬場も雨が降るとぐちゃぐちゃで、埒もまだできず、広いはずの馬場もドラム缶で小さく囲った範囲しか満足に使えない状況だった。
でも少しずつ馬場に砂を入れ、埒を造り、ペンキを塗り、ロッカー室も整備し、洗い場もお湯が使えるように施設を整えていった。

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馬の思い出9~乗馬クラブの閉鎖

2005年02月09日 00時00分01秒 | 蹄跡
1989年1月~3月
 

事件の翌日はTVの朝のワイドショーが取材に来て、新聞もいっぱい取材に来たそうだ。「ルシエルはMさんの後を追っていったのでしょうか?やて。リポーターもうまいこと言いよるわ、全然逆方向やのに」・・・と取材のことを話しながらM永は力なく笑った。あの日珍しく馬房掃除して、ルシエルにブラシをかけながら話かけたら、いつもはフンて感じでそっぽを向くのに顔を寄せて聞いてくれて目で話ができたのだと・・・。「いろいろ辛いことがあって死にたいと思ったのがわかったんやろか?、わしの代わりに死んだんやろか?」と言った。ルシエルに乗って試合に出ようと計画していたけど、もうこれ以上周囲の人に迷惑を掛けられないからと、乗馬クラブを閉鎖することを決意していた。わずか半年の間に2頭も馬が死んだことに相当まいっていた。
クラブの閉鎖が決まって、会員同士でこれからのことをどうするか、話し合いの場を何回か重ねた。きー坊はこのままここで皆が馬に乗り続けられるように協力してくれると言い、後はどういう形態にして存続させられるかだった。素人ばかりで上手くいくのか?
そんな時、N道と乗馬クラブCでの友人マー坊が同好会を結成する案を出してきた。有志で出資し合って経費の残りをきー坊に支払うというもの。しかし、M永とともに最初にH乗馬クラブを起こしたk氏が出てきて、M永から馬具や馬を買い取ることになり、経営者が代わっただけで今まで通りだという。が、K氏にしても新しい乗馬クラブがまだ完成しておらず当分はこちらには顔を出すこともないらしい。
どういう形でもいいから存続させるようにとのことだったM永を乗馬クラブの経営に引っ張り込んだのはK氏だから、M永を馬から切り離すことでけりをつけたかったようだ。M永はその後よその建設中の乗馬クラブで働いたり、私の最初の馬を買ったM乗馬クラブで住み込みで働いたりで、結局馬から離れることができなかった。

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馬の思い出8~ルシエルの交通事故死

2005年02月08日 00時00分01秒 | 蹄跡

1989年1月26日

地元新聞に乗った小さな記事・・・「車にドシン 馬死ぬ
会社からA子さんにH先生の古神道講座が有るのか確認の電話を入れたとき、知ってる?と聞かれた。わたしが「何?」と聞くと、「ルシエルが死んだ」という。今朝の新聞見てなかったから初めて知った。

昨夜10時頃クラブの近所の住民からきー坊と、同地区内に住むいずやんに「馬が歩いとるよ」と連絡があり、M永に連絡し3人で探したら1km離れた田園地帯で道の真ん中にルシエルが倒れているのを見つけたらしい。は田んぼに突っ込み屋根がへこんでいたが、運転手は自力で脱出し歩いて近くの病院へ向かっていた。そこは設備がないのでもっと大きな病院へ送り届けた後後、馬はY氏がクレーンで吊り上げトラックに乗せて運んだのだった。
このとき病院の所在地がよくわからず、その近くに住むA子さんに尋ねたときに事情を説明したようで、その日はM永,きー坊、A子さんの3人でクラブハウスで明け方5時半まで大泣きしていたという。

メックルディのときと違い私には何にも連絡がなかった。そんな余裕もないほどM永はショックだったようだ。ルシエルは私が初めて乗った馬で、A子さんの一番お気に入りのクラブでも一番いい馬だった。
私はこの日の夕方もクラブに立ち寄ったがM永は帰宅した後だった。ちょうどきー坊が来て、ルシエルの馬房の前で「逃げるなよ」と馬に言い聞かせて帰ったのに。最近よく馬栓棒を外して馬房から逃げ出していたのだ。厩舎には各馬房の馬栓棒と、厩舎出入り口にも鉄パイプで栓をする構造だったのたのに、してなかった。
この事故の後、外のパイプもちゃんと掛ける様になったけど。あの夜、きー坊と最後にルシエルに会ったとき、なんで外のパイプのことに気が付かなかったんだろう・・・・・

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馬の思い出7~メックルディの死

2005年02月07日 00時00分01秒 | 蹄跡

1988年7月4日(月)

メックルディという栗毛の馬が死んだと、M永からの電話が来たのはもう23時35分だった。 クラブには深夜にもかかわらずA子さん、いずやん、きー坊とその母上とN道が来ていた。 馬房には筵を掛けられたメックルディの遺体が横たわり、触ると冷たかった。 口を開け舌をべろ~っと出して目は閉じられていた。初めて馬の死を経験した。 初心者にはちょっと難しい馬だったのであまり騎乗したことはなかったが、部班で 駈歩の練習中内廻りをした為、他の馬と併走するような形になってしまいちょっとハミに引っ掛かり暴走しかけたが、手綱が切れて失速し落馬の危機を免れた思い出があった。 メックッルディはいずやんが初めてH乗馬クラブに行った時に、入り口手前に放牧されていて最初に会った馬だからという理由で彼女のお気に入りだったので、死んだことをひどく悲しみクラブハウス で一人落ち込んでいた。死因は疝痛だったが、お昼にお腹が痛そうだったのにMは獣医さん も呼ばずに放置していたから死んだのだと、いずやんはM永を激しく責めた たとえ獣医さんに来てもらっても助かったという保証はないものの、最初に適切な処置を 何も取らなかったのは事実で、誰よりもM永が落ち込んでいた。 翌日クラブに行くと、メックルディの遺体はなくその馬房には最初よく乗っていた馬 マーミオンが入っていた。遺体の処理はどうしたのかなと思ったけど、聞けなかった。 写真を探したものの、メックルディの写真は見つからなかったが、栗毛で奇麗な馬だった。

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馬の思い出6~移転

2005年02月06日 00時00分01秒 | 蹄跡

1988年 初夏

H乗馬クラブの土地はH乗馬クラブをMと共に造ったK氏のお兄さんの所有でクラブの裏山もゴルフ場になってしまうらしく、立ち退きを迫られていた。取り壊されていく厩舎(M永が屋根の上で作業中)

その頃、少し前まで是清という馬を預けていたきー坊がH市で牛舎を改造して1頭だけ飼い始めていたので、彼の好意によりそこにクラブを移転することになった。田んぼ3反分の敷地に厩舎とクラブハウスと馬場をこれから造っていこうというのだ。6月にH市へ2回に分けて馬を移し、元のクラブは厩舎もクラブハウスも取壊された。跡地を見に行ってみたが、何だこんな狭い場所だったのかと思った。移転先は牛舎を改造して6頭分の馬房が造られたが、南北方向の壁がなく吹きさらしだった。壁がなくてもこれから暑くなるし、屋根は頑丈で問題はなかったけど。きー坊は一人で六角形のログハウスを建設中だったが、エホバの証人に入信したため奉仕活動に忙しくなり、なかなか自分の馬にも乗れなくなりつつあった。

 

M永とN道は最初の頃は和気藹々とやっていたものの、M永が観光乗馬に行っている間にN道が私たちと楽しくやっていることが面白くなかったのか(彼は一人ぼっちだった)他にも原因はあったのだろうが、二人の仲はねじれてしまい移転後N道は次第に来なくなった。
H乗馬クラブへは18kmでH市はその手前にあり、12kmと通いやすくなったので逆方向ではあったが、会社の帰りにもクラブへ寄って行くようになった。夕方行っても馬を見るだけだったが、T田さんの息子さんが大学の馬術部監督とかで、一度来られたときに毎日来れるなら馬を動かした方がいいと教えてくれた。といっても、馬場もまだ仮柵で砂も入っていないし、調馬策もしたことがなかったのでどうすればいいのかさっぱりわからなかった。M永は毎日馬場と施設造りに明け暮れ、私たち会員は全然馬に乗れない毎日が続いた。そんな状況なので会員も来なくなり、来るのは太極拳のH先生の奥さん(A子さん)とその娘二人といずやんくらいだった。太極拳の先生は忙しくて殆ど来れず、A子さんの方が乗馬にはまっていった。いずやんも太極拳仲間だったので太極拳一派だけしかいなくなった。馬に乗れなくても皆クラブハウスや馬場を造るのを手伝い、馬房掃除をして馬に触れ結構楽しんでいた。移転前にさよならパーティを開いた。沢山集まって楽しいひと時を過ごした。

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