迷走していた「たんなさん」のつぶやき

※個人の感想です・・・

ヒデが倒れこんだことの意味

2006年06月25日 | スポーツ
コラム「俺がピッチで倒れたら…」~走り続けた中田英寿
2006年06月25日 [21:09]
ブラジル戦のラスト10分、中田英寿選手はピッチをフラフラとまるで意識がないかのように彷徨っていました。ボールが目前を通過しても、触ることができなかった場面が何度か続き、ボールを取られた後も、どちらに動き出しをするのか悩むように足が動きませんでした。
試合が終わりルシオとユニホームを交換したところまでは何とかもちこたえましたが、その後はセンターサークルに倒れこみ、双眼鏡で見ると、腹筋が大きく上下している。力を振り絞ってばったりと、ああして倒れこむ姿、意識がないのに前進しようと足を前に出そうとする姿を、私はマラソンなど長距離では再三目にしてきましたが、ここは芝の上です。このコラムで、中田選手の「長距離ランナーの孤独」とした記事をクロアチア戦後に書きましたが、まさに壮絶なマラソンのゴールでした。
オーストラリア戦の後、ボンでの取材、私に「オーストラリアに負けたとき、生まれて初めて涙が出るほど悔しかった。本当に涙が出そうだった」と、ふっと笑いながら言った姿に、本当に涙を流している姿が重なりました。
中田選手が起き上がることができない時間、私は、彼を取材したこの10年以上の年月を思い出していました。98年、セリエAペルージャへ移籍したとき、毎試合汚いファールで削られた頃です。
「俺は絶対にピッチで倒れない。俺が倒れたときは、本当に死ぬほど辛いときだよ」
その言葉を真っ先に思い、今、目前で倒れて動けない彼が「死ぬほど」の境地にいることを理解できました。
あの光景に象徴されたのは、私にとって「2つ」のことです。
センターサークルで全身痙攣の一歩手前で何とか呼吸を保っている仲間に手を差し伸べにいったのは、並木トレーナー、湯川主務です。2人は彼がユース代表の年齢から中田とともに代表で苦楽をともにしてきました。2人の問いかけに返事をするとき、中田は穏やかに笑いました。そして、ブラジルのアドリアーノにも。パルマの同僚でした。日本選手は宮本一人。水を飲もうとペットボトルをひねって開けたかったのでしょうが、左手が使えず、一人ではあけられないペットボトルをじっと見つめ、脇に挟んで開けようとする様子に、私はチームというのは何かを思いました。
このW杯の「日本代表」をあれほど鮮やかに、しかも残酷な形で示したシーンはなかったと思います。多くの方々が、何か感じるものがあったのではないでしょうか。
中田はボンで私にこういいました。
「サッカーがこんなに難しいと思ったことは一度もなかったんだけれどね。ひとりじゃできないんだよね、いいサッカーというのは」と。
そしてもうひとつは、戦うということの根本的な姿でした。確かに中田は動けませんでした。しかし、それは「わずか」10分ほどです。彼が全力で走りきったのは、あの90分でも、今大会270分でもない。ユース代表に入った95年から実に11年にも渡たるひとつの時代を駆け抜けたのです。にもかかわらず、それだけ大きな何かにわずか10分ほどでけりをつけて、涙をふいて立ち上がった姿こそ、「戦う」ことだと思いました。次がどこであろうと、ここから去り、次に向かう、そういうことです。サッカーとは、スポーツとはそういう移り変わりに生きるものだ、と彼は悟っているのでしょう。
長かった時代が終わり、しかしすぐに始まっている何かのために前を向くこと。中田選手があの短い時間で、実に偉大で、美しい表現をしたことに私は心打たれました。言葉にできないほどの無念や失望、充実に試合終了から11分でけりをつけ、切り替えてみせたあの姿は、忘れられません。
まだ彼と話していません。話せる日を今はゆっくり待とうと思います。
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この「サポーターズスタジアム」は、「増島スタジアム」のワールドカップ版です。
私のサッカーの知識の多くを、この「増島スタジアム」から学びました。
ヒデについても同様です。
彼はどんなに削られても、倒されても、何事もなかったようにすっと立ち上がります。
その彼がワールドカップという世界が注視している舞台で、倒れこんだまま起き上がれなかったという事実。
この意味をもっとたくさんの人に知って欲しいと思い、長いですが、前文引用させてもらいました。

最後に、立ち上がったヒデはサポーターに「ありがとう」と挨拶をしてからピッチをあとにしました。