@じゃんだらりん

趣味(温泉・グルメ・音楽鑑賞・読書、コミック・日本史に世界史、ミステリーにミリタリー・時事)について語ってるブログです。

謎は多分、永遠に謎のまま。

2008-03-03 | 【歴史】戦国
旧本能寺遺構確認 無防備信長、深まる謎 圧倒的兵力差、すぐ決着(産経新聞) - goo ニュース

歴史ドラマでよくある「信長は、最後の弓を引いての大立ち回りをした。」というのが虚構にすぎなかった。というのが”史実”となったことが大きな収穫だった。

出来れば発掘調査を進めて、例の”抜け穴説”も明確にしてほしいけど、現在は大部分が住宅地になってしまってるから無理みたいです。

日本史上、最大の政治事件の一つ「本能寺の変」。

この件についての研究論文や著書は物凄い数が出てるので、史実を裏読みしよとすればいくらでも出来る。逆にコトの真実はもっと単純なものだったかもしれない。

自分は「裏読み派」なので、こういう説こんな話が好きです。



旧本能寺遺構確認 無防備信長、深まる謎 圧倒的兵力差、すぐ決着
2008年3月3日(月)16:34

 ■光秀「野心説」に追い風?

 戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。謎はますます広がっている。


 発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は「この石垣が、信長の時代のものであることは間違いない。特に瓦の量などから大きな伽藍(がらん)が焼けた可能性は低いのではないか」と話す。


 遺構の延び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。この場所に、信長の御殿があったとみられる。


 規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。圧倒的な兵力(1万3000人)の明智光秀軍を前に、信長はあっけなく自害。戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったようだ。


 信長はなぜこれほど不用心だったのか。今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が背くとは、考えてもいなかった」とみている。光秀の謀反の理由については、(1)領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み(2)佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感(3)足利義昭や近衛前久(さきひさ)ら、旧幕府・朝廷勢力に唆された-などの説が唱えられている。


 しかし、今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨(えんこん)説は考えにくいとする。やはり、本能寺に小人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と、決断したとみている。


 また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。(1)関白(2)征夷大将軍(3)太政大臣-の3説があるが、今谷教授は「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。


 一方、脇田修・大阪歴史博物館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある太政大臣ではないか」とみている。


最新の画像もっと見る