久しぶりの更新は、じゃんだらりんの地元の偉業について。(BGMは中島みゆきで宜しく)
【枝下用水と西澤真蔵】
>枝下用水は、明治10年、当時かんばつに悩む農民達の手により測量が始められ明治17年には西加茂郡西枝下村(現在の豊田市)の矢作川を水源として一部が開鑿された。次いで明治20年から西澤真蔵氏らによる大規模な延長工事が行われ、明治23年に幹線用水と東用水、明治25年に中用水、明治27年には西用水が通水した。山野を巡る長大な疏水工事は困難を極め、加えてしばしば洪水や地震に見舞われるなど、七星霜に亘る辛苦と膨大な費用を費やして農民の永年の夢が叶えられた。
・・・この枝下用水の開発に一番尽力した「西澤真蔵」という人は、実は地元に縁もゆかりも無い近江(滋賀県)の出身。
最初は出資話に乗った純粋なビジネスだったはずが、その後肝心の地元愛知の実業家たちが「もう無理」と手を引いた後も、借金をし全財産を失いながらも用水の完成に情熱を燃やしたそうです。
「どうしてそこまでして?」と素朴な疑問が湧いてきますが、自分はそれは「明治という時代がそうさせた」と勝手に解釈してます。
それまで尾張だ三河だ薩摩だ長州だ土佐だのと、自らの「お国」のことだけ考えていた時代が一変、「日本国」という新しい概念が生まれたとき、あのケネディ大統領の名演説の様に、当時の”日本人”もまた”自分がこの国に対して何ができるか?”、という衝動に突き動かされたんだと。
後年、周囲から用水開発の理由を聞かれた西澤は「立派な水田が出来る。それでいいじゃないか。」と静かに語るだけだったそうです。
現在、地球の裏側で荒れ地に井戸を掘る事業をしてる日本人に「それって何の役にたつの?俺らのメリットになるの?」と聞いたら、きっと上記の西澤と同様の台詞が返ってくるんじゃないでしょうか。
【枝下用水と西澤真蔵】
>枝下用水は、明治10年、当時かんばつに悩む農民達の手により測量が始められ明治17年には西加茂郡西枝下村(現在の豊田市)の矢作川を水源として一部が開鑿された。次いで明治20年から西澤真蔵氏らによる大規模な延長工事が行われ、明治23年に幹線用水と東用水、明治25年に中用水、明治27年には西用水が通水した。山野を巡る長大な疏水工事は困難を極め、加えてしばしば洪水や地震に見舞われるなど、七星霜に亘る辛苦と膨大な費用を費やして農民の永年の夢が叶えられた。
・・・この枝下用水の開発に一番尽力した「西澤真蔵」という人は、実は地元に縁もゆかりも無い近江(滋賀県)の出身。
最初は出資話に乗った純粋なビジネスだったはずが、その後肝心の地元愛知の実業家たちが「もう無理」と手を引いた後も、借金をし全財産を失いながらも用水の完成に情熱を燃やしたそうです。
「どうしてそこまでして?」と素朴な疑問が湧いてきますが、自分はそれは「明治という時代がそうさせた」と勝手に解釈してます。
それまで尾張だ三河だ薩摩だ長州だ土佐だのと、自らの「お国」のことだけ考えていた時代が一変、「日本国」という新しい概念が生まれたとき、あのケネディ大統領の名演説の様に、当時の”日本人”もまた”自分がこの国に対して何ができるか?”、という衝動に突き動かされたんだと。
後年、周囲から用水開発の理由を聞かれた西澤は「立派な水田が出来る。それでいいじゃないか。」と静かに語るだけだったそうです。
現在、地球の裏側で荒れ地に井戸を掘る事業をしてる日本人に「それって何の役にたつの?俺らのメリットになるの?」と聞いたら、きっと上記の西澤と同様の台詞が返ってくるんじゃないでしょうか。