みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

おかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった

2022-11-11 12:00:00 | 賢治渉猟
《三輪の白い片栗》(種山高原、令和3年4月27日撮影)
 白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
 そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。

 私は子ども頃から宮澤賢治が大好きで尊敬していた。そこで定年後ある理由があって、理系人間であり、文系に関しては門外漢で非専門家の私だがその賢治のことを、基本的には「仮説検証型研究」という手法に依って検証し続けて15年以上が経った。その結果、現「賢治年譜」等において、少なからず見つかる常識的に考えればこれはおかしいぞと思われる事柄については、ほぼ皆いずれもおかしいということが実証できた。
 そのうちの主な事柄については、例えば、拙著『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)の中の〝第一章 本統の宮澤賢治〟の、
2.「賢治神話」検証七点
  ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
  ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
  ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
  ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
  ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
  ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
  ㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
でも論じているので詳細はそちらで御覧いただくことにして、ここでは紙幅の都合上、以下に簡潔に述べてみたい。

 ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
「羅須地人協会時代」の賢治は独居自炊であった、これが通説であろう。ところが、
 千葉恭という人物が、大正15年6月22日頃~昭和2年3月8日までの少なくとも8か月間を賢治と一緒に暮らしていた。
ということを私は実証できたので、同時代の賢治は「独居自炊」であったとは言い切れない。

 ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
 大正15年の現定説、
 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
は正しいとは言えず、この12月2日について言えることは、
 沢里武治〔、柳原昌悦〕に見送られながら上京(ただし、この時に「セロを持って」という保証はない)。
ということである。
 なおかつ、セロを持って上京した件についての真実は、
 みぞれの降る、昭和2年の11月頃、「沢里君、セロを持つて上京して来る。今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する」と言って花巻駅から上京。そして、約三か月間に亘るチェロの猛勉強の無理が祟って病気になって帰花した。
である。

 ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 「羅須地人協会時代(2年4か月)」のうちの大正15年も、昭和3年もともに賢治の地元稗貫はヒデリの年であった。そこで、賢治は農民たちのために「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たというのが通説のようだが、そのようなことを裏付ける証言も資料も見つからない。つまり、同時代の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。

 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 少なからぬ賢治研究者等が、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」と断定しているが、そのような歴史的事実はなく誤認である。自ずから、同年に賢治が「サムサノナツハオロオロアル」いたとは言えない。

 畢竟するに、「羅須地人協会時代」の賢治が、
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ

したとは言えない。

 ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
 「羅須地人協会時代」の賢治は、食味もよくて冷害にも稲熱病にも強いという陸羽一三二号を岩手の農民たちのために推奨し、貢献したというのが通説のようだ。
 しかしながら、同品種は金肥に対応して開発された品種だったから、当時の農家全体の約六割を占めていた小作農や自小作農(つまり貧しい農家)にとっては金肥の購入が容易ではなかったので、彼等のために貢献できたとは言い切れない。
 また、賢治は石灰の施用を奨め、特に「東北砕石工場技師時代」は、貧しい農民たちのために炭酸石灰を安く供給して酸性土壌の田圃を中性にさせ、稲の収量を増してやった、というのが通説のようだ。しかっし、そうであったとは言えない。それは、稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、そもそも弱酸性~微酸性だからである。
 よって、「羅須地人協会時代」や「東北砕石工場技師時代」の賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めていた貧しい農民たちのために貢献できたとは言い難い。

 ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
 賢治が昭和3年8月に実家へ戻った件については、
 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説のようだが、そうとばかりは言えない。
 それは、沢里武治宛書簡 243の中の一言「演習が終るころ」の「演習」とは、同年10月に行われた陸軍大演習であることはほぼ間違いないから、次のような、
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付くし、実際にこの仮説を検証できたからである。

 ㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
 巷間、高瀬露が〈悪女〉であるとされる大きな理由の一つとして、賢治の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕が挙げられる。それは、露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だから「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは露であるという単純で安直な論理によってである。
 しかしこのモデルとしては、露のみならず別に伊藤ちゑも考えられる。なおかつ、賢治周縁の女性の中でクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局のところ、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとして考えられる人物は露とちゑの二人であり、この二人しかいない。
 では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかというと、そのモデルは限りなくちゑである。なぜなら、
・賢治は昭和6年の7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
・それに対して露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたということだし、しかも昭和3年8月に下根子桜(しもねこさくら)から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般に云われている。
から、
・ちゑ:賢治が「結婚するかも知れません」と言っていたというちゑに対して、その約2か月半後に、
・露:「レプラ」と詐病したりして賢治の方から拒絶したと云われている露に対して、その約4年後に、
どちらの女性に対して、あの、「なまなましい憤怒の文字」を連ねたと佐藤勝治が言っているところの、〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を詠むかというと、それはほぼちゑに対してであるとなるのではなかろうか。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。
 したがって、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたということが覗える賢治が、ちゑからそれを拒絶されて、自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた末の憤怒の詩だったと判断するのが極めて自然であろう。つまり、「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことではなくてちゑのことである、という蓋然性が極めて高いということであり、それ故に、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。
 よっておのずから、次の
 〈仮説〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルではないということをまず実証せねばならない。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、現時点では限定付きの「真実」となる。言い換えれば、露をモデルにしているとは言い切れない一篇の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を元にして、露を〈悪女〉にすることができないのは当然のことだ。

 というわけで、実際に検証してみればみるほど、おかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。だから、これらのことが、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と、私の恩師岩田純蔵教授が今から半世紀以上も前に私たちに嘆いていた事柄に当たるのだろうと推断できた。そしてこれで恩師からのミッションにはある程度応えられたかなと、いくばくか安堵したのだった。

 私は最初に、「ある理由があって」と述べたが、それは恩師の「嘆いた」事柄がどういうものなのかを調べることが私に与えられた恩師からのミッションだと思い続けてきたからである。

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