みちのくの山野草

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あやかしな「一九二七年の秋の日」の訪問

2016-03-30 10:04:42 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述には「あやかしなこと」が少なからずあるということがこれでわかったわけだが、それではこの記述の中に「あやかしでないこと」は何があるのだろうか。それは、
 彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。
と上田が前掲論文中でいみじくも断り書きをして引用している、「直接の見聞」に基づいた次の記述、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(投稿者略)…ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(投稿者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。
くらいなものだろう。

 ところがこれが大問題だ。「一九二八年の秋」ということであれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから下根子桜にはもはや既に居らず、この引用文に書かれているような下根子桜訪問は森には不可能であり、この「一九二八年の秋」という記述は明らかなミスだからだ。そこで、『新校本年譜』はこの下根子桜訪問についてどうしたかというと、
    「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
と注記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み換えている。つまり、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。だがもちろんこのような判断は安直であり、論理的でもない。大前提となるそのような「下根子桜訪問」自体が確かにあったという保証がないからだ。
 まして、上田の同論文中には、「露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏だった」という意味の露本人の証言も載っているから、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が下根子桜を訪ねたとしても、その途中で露とはすれ違うことはできないことになるので、その保証が必要となる。
 しかも実は、昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その下根子桜訪問の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は下根子桜を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。
 そんな時にふと思い出したのが、『宮沢賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのに、だ。
 となれば、あれはケアレスミスなどではなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言えるし、そこでは「昭和三年」も使っていないということから、よからぬ企てがそこにあったと彼は疑われても致し方がなかろう。
 したがって今まで述べたことも併せて判断すれば、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書くわけにはいかなかったと判断してももうよさそうだ。おのずから、少なくとも「一九二七年の秋の日」に森は下根子桜を訪問していなかったということも、同様にだ。どうやら、これだけは「直接の見聞」と上田から思われていた森の件の下根子桜訪問自体が虚構であり、捏造だったということがいよいよ現実味を帯びてきたようだ。
 一方で、次のような疑問が湧く。森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』の中では、
 この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。
と述べていながら、上田に対しては、
〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていない。
という意味の答えをしているという
(上田の前掲論文)。
もちろん、どちらの女性も露のことであり、森は露と会ったのは一度きりと言ったり、別の機会にも会ったと言ったりしていることになるから、「下根子桜訪問」に関して嘘を言っていた蓋然性が高い。ならばいっそのこと、是非はさておき、森はその訪問時期は「一九二七年」だったと始めから嘯くという選択肢だってあったはずだがなぜそうはしなかったのだろうか、という疑問がだ。

 そんな折に私の目の前に現れたのが、平成26年2月16日付『岩手日報』掲載の「文學の國いわて」(道又力著)であり、そこには、
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は、トルストイも愛用した民族衣装ルバシカにおかっぱ頭という最先端のスタイルで、東京の街を闊歩していた。…(筆者略)…ところが気ままなボヘミアン暮らしがたったのか、心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
と書かれていた。当時森は病を得て帰郷、その後盛岡病院に入院等をしていたということを私は初めて知った。そして「そうか、そういうことだったのか」と覚ったのだった。当時、心臓脚気と結核性肋膜炎で長期療養中だった森には、「一九二七年」の秋に下根子桜を訪問することはどだい無理だったから「一九二七年」とは書けなかったのだ、と。
 そこで、当時の『岩手日報』を調べてみたところ、例えば昭和2年6月5日付同紙には、「四重苦の放浪歌人」とも言われた下山清の「『牧草』讀後感」が載っていて、その中に、
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
と書いてあった。そしてたしかに、『広辞苑』によれば、「脚氣衝心」とは「呼吸促迫を来し、多くは苦悶して死に至る」重病だという。これで、「頑なに「一九二七年」としなかった」その「理由」も納得できた。「一九二七年」当時の森は重篤であることがこうして新聞で広く伝えられていたから、森が「一九二七年」の秋に下根子桜を訪問したと書いたならば、世間からそれは嘘だろうと直ぐ見破られるであろうことを森はわきまえていたからだ、と。そして同時に、先に湧いた疑問、森が「一九二七年」と嘯けなかった理由もこれだったのだと私は納得した。

 したがって、ここまでの考察によって、
〈仮説〉森荘已池が一九二七年の秋に下根子桜を訪問したということも、その時に露とすれ違ったこともいずれも事実でない。
が定立できるし、これを裏付ける証言や資料は幾つもあったが、その反例は現時点では何一つ見つからない。よって、この「仮説」は今後その反例が突きつけられない限りという限定付きの「真実」となる。言い換えれば、「仮説検証型研究」の結果、
「一九二七年」「一九二八年」のいずれの秋にせよ、森が下根子桜を訪問したということも、その時に途中で露とすれ違ったということも共に捏造だった。
としてよいことになった。
 もちろんこれで、
森荘已池が下根子桜を訪問したという「一九二八年の秋の日」を「一九二七年の秋の日」に変更することには無理がある。
ということもわかった。

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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。







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