みちのくの山野草

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高級蓄音機の購入からも

2016-02-17 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
貧しかった食生活
 下根子桜の宮澤家別宅の西隣は伊藤忠一の家だったが、そのさらに西隣は伊藤清の家だ。その伊藤清は「羅須地人協会時代」の賢治の食事に関して、
  その夕食がまた極度に質素なものべ蕪などを土鍋でクツクツと煮て、その一品料理が夕飯のお采にされました。
とか、
  お采のない時はトマトで夕食を間に合わせ、
              <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)264pより>
と追想していた。
 あるいは賢治自身も、〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕(「春と修羅 詩稿補遺」)の中に、
   これこそ天の恵みと考へ
   町あたりから借金なんぞ一文もせず
   八月までは
   だまってこれだけ食べる筈
   けだし八月の末までは
   何の収入もないときめた
   この荒れ畑の切り返しから
   今日突然に湧き出した
   三十キロでも利かないやうな
   うすい黄いろのこの菊芋

              <『校本 宮澤賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
とキクイモのことを詠み込んでいるから、この詩を詠んだ頃はキクイモばかりを食べていたかもしれず、おそらく「羅須地人協会時代」の賢治の食生活は極めて貧しかったであろう。
 そしてたしかに、当時賢治と一緒に暮らしていた千葉恭も、
 朝食も詩にあるとほり少々の玄米と野菜と味噌汁で簡単に濟ませ、それから近くの草原や小さい雑木のあつた處を開墾して、せつせつと切り拓き色々の草花や野菜等を栽培しました。私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しましたが、実際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。汗を流して働いた後裏の台所に行つて、杉葉を掻き集めては湯を沸かして呑む一杯の茶の味のおいしかつたこと、これこそ醍醐味といふのでせう!時には小麦粉でダンゴを拵へて焼いて食べたこともありました。毎日簡單な食事で土の香を一杯胸に吸ひながら働いたその氣分は何ともたとへやうのない愉快さでした。開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。
              <『四次元7号』(宮沢賢治友の会 May-5)より>
とも言っているから、「羅須地人協会時代」の賢治の食生活が極めて貧弱だったことは間違いなかろう。

賢治の高級蓄音機
 ところがその千葉恭が次のようなことも証言している。
 金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は〝百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論ゆかず、そのまま十字屋に返して来た。蓄音器は立派なもので、オルガンくらいの大きさがあつたでしよう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。
               <『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
あるは、同じく恭はこれと似ているが違うところもある次のような証言もしている。
 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがらを見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮かんだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですな―それは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。私は驚いた様にしてしてゐましら主人は「……先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣れましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差し出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。
 東京から歸つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。そしてベートーベンの名曲は夜の静かな室に聽くことが多くなつたのでした。
               <『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
 さて、恭が蓄音機(器)を売りに行ったという2つの似たような証言、どちらの場合も下根子桜の別宅にあった蓄音機(器)を賢治に頼まれて売りに行ったというものであるが、金額といい売った店といい全く違う。はたしてこのようなことが2度もあったのだろうか。さりながら、恭は賢治に頼まれて別宅にあった蓄音機(器)を少なくとも1回は売りに行ったことがあるということはほぼ事実であろう。また、その時期は雪の降る頃であり、目的は上京する際の経費に充てようとしたためであり、帰花後にそれを買い戻したということも共に蓋然性が高いと言えるだろう。そしてその蓄音機(器)を売りに行った時期としては、この時の賢治の上京は12月2日だということだから、それ以前のこととなるので、恭が下根子桜の別宅に一緒に住んでいた時期を考慮すれば大正15年のおそらく11月の出来事であったであろう。
 となれば疑問に思うことは、「羅須地人協会時代」の賢治がどの様にしてこの蓄音機を購ったかだ。もちろんそんな大金を下根子桜に住んでいた賢治が用意できることはまずあり得ない、次のことを除いては。

羅須地人協会時代に何と大金520円が懐に
 平成11年11月1日付『岩手日報』に、
 宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(投稿者略)…賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。これを裏付ける県内部の決裁書類も合わせてとじ、保管している。
という記事が載った。大正15年6月7日に賢治の520円の退職金(「一時恩給」)の支給手続を取ったということがわかったという記事だ。
 さて、それではこの当時の520円とはどれくらいの価値を持っていたのだろうか。賢治が農学校を辞める頃の月給は百円ちょっとだから、おおよそその5ヶ月分の退職金をもらったことになる。ではそもそも当時の「月給百円」という額はどれほどのものだったかだが、岩瀬彰氏によれば、当時のサラリーマンにとって「月給百円」はあこがれの額であったと言い、「月百円も遠い暮らし」という項の中で
 「百円」以上を稼ぐサラリーマンは昭和初期の不景気下でも、そう苦しい生活をしていたわけではなかった。子供のいない新婚なら五十円でも生活できた時代だ。
              <『「月給百円」サラリーマン―戦前日本の「平和」な生活』(岩瀬彰著、講談社)63pより>
と述べている。花巻農学校勤務時代の賢治の月給は百円前後だから、かなりの高給取りであったと言える。そのような時代の520円の大金を賢治は「羅須地人協会時代」に懐にしていたのである。

凡人とは乖離していた賢治の金銭感覚
 したがって、普通の金銭感覚で言ったならば、もはや現金を得る見通しなど持てなくなった「羅須地人協会時代」の賢治ならば、この大金の虎の子をしっかりとそして慎重に自己管理しなければいけなかったはずだ。ところが現実は、恐らくその退職金でこの蓄音機を購った蓋然性が大だ。なぜなら、千葉恭が証言するような高級蓄音機を買う術はこの大金を使うしか考えられないからである。
 一方で、「羅須地人協会時代」の賢治は粗食だったと云われているし、下根子桜で作った野菜や花も殆ど売れなかったはずだし、まして主食の米を自分で作ったわけでもない。となれば、真っ当な人並みの生活を下根子桜で何とか続けて行こうとするならば、常識的にはこの520円はそれを支える貴重な軍資金であったであろうが、どうやらそのために使ったとは思えない(もしそうであったならばキクイモを掘ってそれを飯の代わりにするなどというような食生活を送っていたはずがない)。
 したがって、賢治には常識人の持つ金銭感覚は乏しく、凡人のそれとは乖離していたようだ。賢治はその時の気持ちの赴くままにお金を使ってしまうという奔放さがあり、「羅須地人協会時代」の購入と思われる高級蓄音機の購入からも、賢治はやはり「不羈奔放」だったことが窺える。しかし、賢治が高級蓄音機を手に入れることができ、しかもそれを売り払うことも自分の責任でできたということがかえって災いしたとも言えよう。私はここまでは賢治の「不羈奔放」を肯定的に評価してきたのだが、少なくともこの賢治の金銭感覚だけはいただけない。それが賢治自身の命を粗末にすることに直結したと思うからだ。
 こと賢治の金銭感覚に限っては「不羈奔放」ではなくて、椎名素夫が座右の銘としていたという「不羈不奔」の方がふさわしかったもしれんなと、私は悔やんだ。 

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《鈴木 守著作案内》

 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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  金は大事だ。 ( 辛 文則)
2016-02-18 00:00:29
  鈴木 守様

  漱石の『草枕・1』に、「金は大事だ。大事なものが増えれば寝る間も心配だろう。」という〈道取〉あるいは〈道得〉があります。因みに、この見慣れない語彙は〈どうしゅ〉〈どうて〉と読ませる道元希玄の造語。他人には「只管打座」を推賞しながら、自らは難解至極なテクストの書き手であった『正法眼蔵』でのキーワードの一つで、〈不道得〉や〈道不得〉などと、微妙な意味の違いを差別(しゃべつ)化しています。そのことを踏まえて、〈本来無差別〉とか〈言語道断(言詮不及・不立文字)〉といった四文字を享受えいないと、…。
   その上っ面を撫でまわしただけでは禅的道取つまり禅的言語y表現は矛盾のカタマリに過ぎない言葉遊びなのですから。尚、〈道得〉は「的確な言語表現の成就」で〈テクスト〉つまり「真摯に読み込むに値するエクリチュール(書かれたもの)」。道元の道取に、「道得を得んとせば十年三十年の研鑽が不可欠なり」というのがあります。「唯か書きさえすればテクストができる」というものではありませんね。〈テキスト〉とし他人様の参考にさせて頂くことだって然りということに。
   で、「大事なものが増えれば…」を「……夜も眠れない。」と書かざるを得ない状況が、まさに〈ネオリベ・リヴァタリアニズム賭博経済〉が陥ってしまった罠だったのでセウね。「経済大国にならん!「という欲望は畢竟ずるに「戦争経済大国になるしかない」という、よく考えてみれば必然の轍路を転がり始めているという嘆かわしい状況は、漱石が、「呑気な俳句的小説」と読者を烟に巻いた『草枕』の最終章で百十五年も前に予言していることですね。『三四郎』で、ある老先生(一関出身の二高教授粟野健次郎)にから語らせている「このままでは日本(大日本帝国)は滅びるね」という予測も。実際、大日本帝国滅亡はその僅か四十年後だったわけで。
  おっと、賢治の金銭感覚の話でした。たとえば、明治三十年頃の時代が描かれている『坊つちやん』での東京物理学校出の〈坊っちゃん〉の月俸は二十円。明治二十八年の松山尋常中での金之助の初任給は月俸八十円でした。専門学校出と帝大だいがき大学院出の文学士である二十八歳の報酬はそれほど違った訳です。
   松山尋常中の校長が帝大卒でなかったら、「三十歳独身の〈赤シャツ〉」より低い給料だったはずです。固より小生は、漱石が『私の個人主義』で明かしているように、〈赤シャツ〉こそが漱石の分身だと読んでいますが、今年の正月のTVドラマの『坊つちやん』も相変わらず〈赤シャツ〉は陰険な悪役でしたね。
   で、明治三十年頃の一円は今日の一万円と概算すれば、明治三十九年の渋民小学校代用教員の月俸五円での生活は、……。
   さて話は飛んで、昭和十二年四月、岩手師範学校卒二十一歳で奉職した尋常小学校訓導兼青年学校助教諭の初任月俸は四十七円でした。尋常小学校訓導だけだと四十円ほどだったそうですから、明治三十年から昭和十二年までの四十年間のインフレ率は二倍程度だったわけですね。それが昭和二十一二十年には千円の貯金が無に帰してしまった訳です。
   日中戦争が始まった昭和十二年四月に四十七円の初任給を手にしたのは他ならない辛文人、つまり小生の父親です。岩手師範学校美術選科時代は、松本竣介も賛助出品していた洋画研究会〈白楊会〉のメンバーで、「賢治とギンドロ(白楊)」との関係も聞かされていたようです。
   で、その〈文人〉はその月俸の半分近くをSPレコード購入に投入した、と。そう聞いて、守先生は「なんという金銭感覚なのだ」と感じるでしょうか。では、もし、そのLPレコードが画集だったらどうでしょう。当時、どちらも相当高額だったようです。
   たとえば、月俸の半分で変えたSPレコードは四枚一組アルバムで、四枚八面に刻まれた三十前後の公共交響曲や協奏曲や弦楽四重奏曲。吾父がSPレコードを買えたのは昭和十六年までの五年間ほどで、の五十アルバムほどだったようです。なぜなら、その十二月の「ニイタカヤマノボレ」、で。因みに、小生がクラシック音楽を舐めるように聴き始めたのは中学校二年生の時からでした。SPアルバムを大事に遺していたことは小学生時代から知っていましたが、ラジオのスピーカスピカーにレコードプレーヤーを繋げて、室内楽や協奏曲を期黄聴き始めました。三分間に一回、レコードをヒックリ返し慎重に針を下して耳を傾けるという集中体験は「ナガラCD再生」とは別事だった気がします。アンサンブル型ステレオ装置が入ったのは大学一年生のときでしたか。就職最初の六月ボーナス全てを投入してインテグレート型ステレオを。以後、ボーナスは全てオーディオ装置購入に消え、三十歳時のLPコレクト枚数は千枚を超えていました。他に買っていたのは書物だけ。衣類や車に回すや旅行に回す金銭は皆無という為体。斯様な「バカな金銭親子の金銭感覚」にどんな心象を懐くでしょうかしらん。
  さて、吾父文人のベートーヴェンやモーツァルトの音楽への嗜癖はその父親(吾祖父)譲りではなく、昭和七年に亡くなった祖父の従兄弟田丸卓郎の遺言によって辛家に贈られたSPレコード・蓄音機・藝術関係書籍によってもたらされたようです。田丸卓郎とは、日本最初の理論物理学者で、水島水島寒月のモデル、寺田寅彦の音楽と物理学の師であった、第五高等学校時代の夏目金之助の同僚です。実家が貧しかった為ドイツ留学は諦めていたところ叔母の夫である辛文弥(小生の曽祖父)から隠し金千円を支援され、明治四十年にドイツで「熱電子(真空管電子?)の研究」を負えて修了えて、師の田中愛橘、弟子の寺田寅彦と共に東京帝大物理学教室で田仲愛橘のフルート、卓郎のピアノ、寅彦のヴァイオリン三重奏を愉しみが。寅彦や野村あらヱビスの西洋音楽狂には卓郎のそれが多少とも影を落としているのではないかと夢想していますが、愛橘が卓郎へ託したのは物理学とローマ字研究だけでなく西洋音楽愛好もであったと。愛橘と卓郎のローマ字研究は、新渡戸稲造の道う「太平洋に橋を架ける」というレトリックが示唆する理念と通じ合っていると考えて差し支えないと思いますが、守先生はどう感じられますか。
  さて、やっと、大正後期から昭和初期、つまり吾父のそれの十数年前の賢治の西洋音楽カブレ現象と金銭感覚問題への言及です。
   吾父のレコード購入ん内案内人はあらヱビス野村胡堂だったのですが、賢治のそれもまた、日本最初の西洋レコード評論家野村あらヱビスだったに違いありませんね。野村が新聞でのレコード評論を始めたのは、大正十三年、関東大地震の翌年、世界で初めて全曲録音されたベートーヴェンの第九への評論だったと書いていますから、藤原嘉藤治と共に聞き入った時期と重なります。
   で、最後に、「五百円の蓄音機」ですが、今日に置き換えると「五百万円のオーディオ装置」ということになりましょう。今日、一千万円を超えるラウドスピーカーや五百万円のLPレコード用プレーヤーは別に珍しくありませんが、小生の高校教員には、妻に内緒で中古のアンプやスピーカーを集めて五百万円相当ということに。三千枚ほどのLPレコードも結婚も出来ずの十年間のコレクトでした。しかし、音楽や読書に興味のない方の金銭感覚からすれば「奇怪しい!」あるいは「オロカシイ!」ということに。「株買い占めに一分間に数百億をつぎ込む」というグリード経済学や、一発数百万の砲弾や一発数千億の大陸間弾道弾を使いもしないのに浪費している金銭感覚 ― 使ってシマッタなら数百兆円の浪費で済まないことに ― などヲカシオロカシことは、……。
  なんやかやと愚にもつかないことを書き連ねてしまってスイマセンです。
   2016,2.17  28:59  辛 文則
   
返信する
すごいと思います (辛様(鈴木))
2016-02-18 07:41:54
辛 文則 様
 お早うございます。
 まずは、このコメントについてご返事いたします。

 いやあ、皆さんそれぞれすごいなと思います。音楽を愛する人がそれに糸目をつけないことに、改めて感心しております。そして、賢治もその一人だと。
 ただ私が、賢治に関してこのようなことを述べておりますのは、賢治の中でそれが完結していれば納得できるのですが、そうでないことにどうもひっかかりがあるのです。そして、一人の社会人として自力で生計を立てていればそれもありかなと思うのですが、それがないのに高級蓄音機を買うという凄さに、賢治は常識という物差しでは測れないのだと思うと共に、その凄さが素晴らしい作品に直結しているのではなかろうかと思っているからです。
                                                          鈴木 守
返信する
 糸目をつけない、ということ (辛 文則)
2016-02-18 17:27:16
  鈴木 守 様

  譬えば、〈温新知故〉という四文字表記を何の説明もなく見た時のフツーの印象あるいは心象はどんな塩梅なんでしょう。「愚癡無明なるべし!それは、温故知新なんだよ、しっかり覚えるなさいべし!」といったあたりがマジョリティでしょうか。「むむっ!この書換えの企図や如何? 譬えば、新しきを温ねて、故(イニシエノマコト)を明らめん。」、などと。好く考えてみると、温故知新を可能にするためには温新知故が不可欠だし、温新知故を深めるためには温故知新が、…、則ち、温故知新と温新知故との間の因縁関係性は相補相依的なるべし。有無、真偽、善悪、美醜、明暗、新旧などなど、すべての対立二項の間には斯なる因縁関係性が働いているべし、とかナントカ。
  うる覚えで自信はないのですが、『帰雁の蘆』に書いていた「温故知新は大切ですが温新知故も大事な姿勢だと考えます」という道取を読んで、その心意の拡大解釈です。『老子・第二章』の道得からのメッセージを重ねた、小生なりの〈両義的思索の方法〉とでももうしましょうか。
  「〈枕石漱流(ちんせきそうりゅう)〉と〈枕流漱石(ちんりゅうそうせき)〉との間の関係」を持ち出して遊戯奔放を楽しむ道は如何でしょう。「石を流に転じて遊ぶとは流石」という頑固にこじつける」遊という意味での〈漱石〉なのか。「自分が使っていた俳号を子規が金之助に贈った名」とされていますが、両人が何方の意味を〈漱石〉という名に仮託していたのかはわかりませんね。慥(まこと)にもって「道も名も非常なるが故に、言語道断、言詮不及麩牛、不立文字。しかれども、吾輩吾輩猫も『正法』に習って文学という概念を根柢から問い直してみん。それしか、吾輩を神経衰弱から救い出してくれる道はないと考えたのです。」、などと。漱石の『文学論』研究の眼目ですが、もし仮に、賢治が、深い感銘を受け、自らも、「文学というものの概念を根柢から問い直してみたい。」、などと欲望したと妄想して奔放不羈を楽しんで遊ぶというのは、…。因みに、漱石の『文学論』は単なる〈文藝論〉ではありませんね。文芸論はもとより、レトリック論、言語哲学論やら心理学、天才論までをも網羅しています。一高での講義録ですが、その難解さは、一高生の殆どに受け入れられなかったことでしられますが、「己も作してみんとす」と試みた学位論文のようなものが「詩ではない詩」としての〈詞集『春と修羅』〉であったのかもしれない、などと夢想して遊戯遊楽しているのですが奈何でしょう。
  といった塩梅に、小生は〈不羈奔放〉という〈道(ことば)〉への〈逍遥遊〉(…?)なる〈道樂〉を。
  どなたかの、〈不羈不奔〉という語用を挙げられていましたが、〈不奔〉は〈非奔〉ではないですから「奔放を為さず」という意志への道取(言語表現・語用)ですよね。この場合の〈不羈〉は、「羈絆(束縛・拘束・抑圧)に縛られず」と読み、「如何なる羈絆なるか?」と問い返して、常識・慣習・通説・俗説・定型・権威・権力などなどを想起して遊ぶということになるでしょうか。固より、そのためには通説定型をブレイクスル―するに足る緻密な探査、思惟、思索が不可欠にならざるをえませんから、左様なリスクをともなう道樂は「好い加減」にしておかないと身心(しんじん)が持たないでセウ。
  ナ~チャッテ、「○○に糸目をつけない」からは随分遠いオシャベリを続けてしまいました。「村の駐在さんがやって来て、〈敵性音楽が聴こえてくるというんだが〉と調べられたけど、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンやブラームスなど枢軸国の音楽ですよ。〉と誤魔化したんだよ。」、と中学生の息子に何度も語って…。そのアルバムのうちの三十冊ほどは八十年ほどの有時を生き延びて。SP用のカートリッジの製造販売が始まりましたので、一寸高価ですが、LPやCDの復刻では追体験できなかった五十数年前の聴取体験を再現してみようか、などと。幸い、四十年前に作られた手持ちのレコードプレーヤーには七十八回転ポジションが。賢治や胡堂が用いたような非電気式電蓄とはちがいますは。まあ、改めて、日中戦争が始まり、戦線が広がっている時代に「バッハやモ-ツァルトやベートーヴェンの音楽のコトバ」をどんな心地で聴いていたのか、などと。小学三年生の頃、問いかけもしないのに、「教練の時、自分の命が危なくなった直ぐに逃げなさい、といいきかせたんだよ。」などと語りかけ始めました。小学高学年にもなれば、それがどれほどアブナイ助言であったかのかは、…。
  「お父さんは、日米開戦の時、日本が勝てると思った?」などと何度か訊ねたのですが、「黙して語らず」でした。「たとえ確実に戦勝できるたとし目算があっても戦争とりわけ侵略戦争を始めるべきでにはにあい非ず。」が小生の信念になったのは、日米開戦半年前に、「私には戦意高揚画は画けない」という趣旨のリベラルエッセイを公表した松本竣介の『生きている画家』に出逢った十五歳の頃だったでしょうか。
  それにしても、「中古を五百円で買い戻して貰った」もさることながら、月俸百円やら退職金五百円というのは破格すぎますね。大正十二年頃の月捧百円は校長より高額だったのではないでしょうか。五百円は小学校教員の年俸なみといった塩梅で。賢治の実際の金廻りについての調査研究などはあるんでしょうかしらん。
  因みに、明治四十年の、妻の甥にあたる田丸卓郎への辛文弥からの金千円の学資支援は、辛家を貧乏のどん底に突き落としたようです。何故にそれほどまでに、というのが、そのエピソードを話して聞かせてくれた叔母たちの謎でした。先ずは吾子(吾が祖父)の学資に、と。次第に、文弥さんの気持ちが。それは単なるボランティア精神ではなく、逆賊の汚名を着せられて、同郷人からさえないがしろにされる南部上級士族の矜恃の表現だったのではないか、と。それは、〈一山原敬〉や〈あらヱビス胡堂野村長一〉などんおそれにも通じるがごときな。
  で、卓郎や、白堊校卒で盛中生教師として米内光政や鈴木卓内苗を教えた田丸欣哉、光政らの一級上で、日本で初めてアンモニア合成に成功した田丸節郎、工学者の田丸莞爾らの祖父で、南部家槍術師範を務めていた田丸五陸(ごろく)は射芸師範も務めていた辛文七と親しかったことが、田丸タマが文弥の妻として小生の父方の曾祖母となった因縁のようです。尚、文弥の兄辛頼母は叔父南部吉兵衛経済愛の下で戦死という成り行きのようです。
  実は、小生の高祖父つまり辛文弥の父親である辛文七は、戊辰戦争当時、南部利御于h剛の主席家老で花輪城代でもあり瑕疵か鹿カキ角口の戦いの総裁でも在った南部(中野)吉兵衛済愛の次弟でした。辛姓一子相伝の辛家は、八戸弥六郎家(遠野南部)、北久兵衛家(花巻南部)と輪番で主席家老を務めた中野吉兵衛家の家督相続準備家として設けられた与力家だったようです。調べてみると、辛家にいました。文七とその辛津門という人で、中野家に何次男として生まれた人物でした(近世こもんじょ館・中野家文書)。      因みに、この逸話は前にも書いた気がしますが、ナマの中野吉兵衛家の初代の名は、九戸弥五郎直実改め高田吉兵衛康実改め中野吉兵衛撞理修理亮直康・康実というひと。『九戸政実の乱』で全滅したはずの雅座ね政実、実親、政徳一族の末弟のようです(『内史畧』など)。志和高水寺城(郡山城)の城代に命ぜられていたのは、三戸(青森県)を拠点としていた南部家領地が不来方以北まで広がった功労者が吉兵衛(きちのひょうえ)で、不来方城建設の中心人物でもあるようですが詳しいことは不明のようです。政実の実弟ということで、南部利直に怪しまれ暗殺されたという説も伝えられているようです。尚、二代目吉兵衛は利直に随って関ヶ原に参戦しているようです。
  何はともあれ、吉兵衛直康が兄たちが立てこもる九戸城攻めの奉行を務めたが故に辛家が起こり、かような雑文を書く個人が誕生し得たと因縁が。
   まあ、小生が、稲造・漱石・光政・卓苗の生涯の座右の書であったという『老子』を座右に置く機縁となった、第一章、第二章、第八章、第三十章、第三十一章、そして第四十七章などの道得を、「温故知新而温新知故」として読み込むほどに「百姓という名の本来の面目は農民の意に非ず。昭和という名の意味を玩味した個人なら〈百姓昭明、万法邦協和。〉という〈故〉を「紫苑勿忘草の花びら」、として、……。
           2016,2,18 17:26  辛 文則
返信する
期待しております (辛文則様(鈴木))
2016-02-18 21:21:29
辛 文則様 
 今晩は。
 〝糸目をつけない、ということ 〟拝読いたしました。
 世が世なら、私は無礼なことをしてしまったので、もう何回か首を落とされていたかもしないなと思いながら読ませていただきました。
 そして思ったことは、是非まずは
  辛家列伝
を、そして次に
  辛文則声聞縁覚録
をそろそろ世に送り出す時機ではないかと思いました。
 期待しております。
 次は、〝されば、ジコチュー身勝手なるべし 〟へ移ります。
                                鈴木 守
返信する

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