みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治「下根子桜」撤退の負い目と呵責

2017-05-21 10:00:00 | 賢治渉猟
 さて前回最後に、
 つまるところ、
  少なくとも昭和3年12月半ば頃以降の賢治は出張看護を受けるほどの重病であった。
と断定できそうだ。しかしそうなってしまうと大きな問題が生じてくることに私は気付く。
と述べたが、それはもちろん、梅野が
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
               <『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)の中のDVD「その4 イギリス海岸」(梅野健造)より>
と述懐しているからだ。もう少し説明を付け加えると、ちょうど昭和3年12月半ば頃以降の賢治は出張看護を受けるほどの重病であったはずだから、そのような賢治が冬の12月半ば頃にわざわざそれも「」に梅野の許を訪れて、しかも「お金をいくらか」をくれたとなれば、そこには不自然さがあまりにもあり過ぎるし、賢治の心の屈折が垣間見られるという、私から見れば大きな問題が発生したからだ。

 さて、なぜ賢治はそこまでして梅野の許を訪れなければならなかったのだろうかということを次に忖度してみたい。常識的には、例えば次のようなことなどが考えられるのではなかろうか。
(1) 病気療養中のしかも「」に訪ねたということからは、人目に付くのを避けた訪問であった(当時賢治と梅野が繋がっているということを周りから気付かれたくなかったということであり、逆に賢治と梅野はある部分でかなり通底していたということがおのずから導かれる)。
(2) しかし、是が非でも賢治の方から梅野を訪問しなければならなかった(賢治の側に負い目があった)。
(3) 「玄関先で5~6分ねお話をして別れた」ということからは、無理をしてまでも訪ねること自体に意味があった(賢治は自分の心の整理をまず付けたかった)。
(4) 「いたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな」ということから、賢治はこの点でも梅野に対して間違った対応をしてしまったと言えそうだ(心から労りの言葉を懸けてやればそれでよいはずだが、お金の力も借りようとしたからだ)。
しかもこれらの項目については、それほど的外れでもなかろう。

 ではこの(1)~(4)を活かしながら、なぜ賢治はこうまでもして梅野の許を訪れなければならなかったのかというということを再度考え直してみれば、私には先に〝三者の身の処し方の違いはあれど〟において
 昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にした夏に岩手では凄まじい「アカ狩り」が行われ、警察によってあるいはその厳しい圧力によって梅野、八重樫、賢治の三者は少なくとも同演習が終わるまでそれぞれ、梅野は留置所に長期拘禁、八重樫は所払い、賢治は実家にておとなしくしていた。
という解釈ができよう。三者の形態は違えども、警察によっていずれの三者共にもそれまでと同じような社会生活ができなくされていたと言えるだろう。言い換えれば、この三者はともに「陸軍大演習」を前にして警察からの強い圧力があったのだが、それに対する対処の仕方が違っていただけだった、という蓋然性が極めて高い。
と判断できたから、
 梅野の長期拘禁と「賢治の昭和3年8月10日以降の実家暮らし」は実は共に同じ理由によるものであったのだが、梅野は自分を枉げずに拒絶したから花巻警察の留置所に45日間もの間拘禁された。一方の賢治はそれまでの自分の枉げて警察の指示通り実家に戻っておとなしくしていたので、賢治には梅野に対しての負い目があり、結果的には同志を裏切ってしまったという良心の呵責に堪えられなくなって詫びに行ったのであった。しかし、体調が思わしくなかったので長居も出来ず、労りの言葉も充分には伝えられず、ついついお金で片を付けることによって取り敢えず自分の気持ちの折り合いを付けてしまった。
ということが私の頭の中には何の抵抗感もなしに浮かんでくるし、ついお金で方を付けてしまいたかったようだという賢治の本心がそこに垣間見られてしまうので、もしこの見方が正しかったとするならば、正直私は釈然としない。
 さりとて、当時を生きていた賢治を現在に生きている私がそこまで厳しく追及するということはアンフェアなことだ。当時は殆ど誰しもが万やむを得ず「転向」した時代なのだから、一方的に私が賢治だけを責めるのは酷なことだからだ。だからここはそうではなく、自分を枉げなかった梅野を評価すればいいだけのこと。あるいは、賢治も普通の人間だったという当たり前のことがそこから導かれるということに意味があるのだと捉えればいいのだということだろう。

 さて、昭和3年12月半ば頃のこの梅野訪問の時には既に賢治は出張看護を受けていたのか、はたまたそうではなかったのかは私には現時点では判らぬが、いずれにせよこの頃の賢治は体調は思わしくなかったはずだからそのような状態での、冬12月半ばの夜の梅野訪問は無茶な行為であり、ましてこの訪問は賢治の負い目が為せるものであった蓋然性も低くないから、実際に梅野を訪ねてしかもお金でけりを付けてしまったという新たな良心の呵責に耐えかねてさらに自分の病気を重くしてしまったということさえもあったのかもしれないな……当時の賢治は精神的にも肉体的にも相当病んでいたのかななどとついつい私はあらぬことまで心配してしまう。

 とまれ、この度新たに鳥山敏子の、
 さて、昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取調べを受けたのか。
という質問に対して、この梅野はまず『2回ほど花巻の警察にね』と答え、続けて次のように、
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
            <『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)の中のDVD「その4 イギリス海岸」(梅野健造)より>
と語っているということを知って、賢治の昭和3年8月10日の「下根子桜」撤退の真相は、
 賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
であったという私の従前の仮説の妥当性を、この梅野の証言はさらに裏付けてくれたと私には認識できた。

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