みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

周辺の調査もまだ不十分、と言う

2018-03-15 10:00:00 | 法華経と賢治
《『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』(上田哲著、明治書院)》

 そして上田は、「最も大切な本質的面の研究はもちろんだが、そういう研究を正しく可能にする周辺の調査もまだ不十分である」と憂い、
 入会当初の事情は関徳弥あての書簡など基本的資料にしてかなり明らかになっているが、その後の信仰生活については、例えば、<信仰は生涯変わることなく、法華文学の創作もつづいたが、国柱会に対しては入信当時としだいに変化し、冷却した。表面には出さなかったが批判的であった。それは国柱会の運動が国体主義中心となり軍部のファッショ化に信念を与える役目をはたすようになったからである。……賢治は法華経の行者として、こうした国柱会とは離れ、ひたすら自己の信仰を全うした>(堀尾青史『年譜 宮沢賢治伝』昭41・3 図書新聞)というような、なんら実証的裏付けのない、推測によった記述が、この本を含めて従来の研究書で述べられているが、果たしてそうであろうか?
             〈『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』11p〉
と疑問を呈し、さらに、
 堀尾氏は、<表面には出さなかった>ものをどうして知ったのか、降神術でも使って承知したわけでもあるまい。
             〈『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』11p~〉
と辛辣に皮肉っている。
 では何故そう言えるのかというと、上田は続けて、
 国柱会の<国体中心主義>というのは、大正末、昭和初期の日本のファッショ化のころから始まったのではない。蓮華会、立正安国会の当時からのこの教団の基本的性格の一つである。明治二十二年いわゆる〝帝国憲法〟発付の十日後智学自ら行った<帝国憲法会議>では、旧憲法を…(投稿者略)…日本国民の精神的経典という独自の観点から講解を行っており、彼の最初の国体学的講話であったことを国柱会関係者は等しく言っている。…(投稿者略)…その体系は、明治三十六年十一月十一日、奈良の畝傍ホテルで行った「皇宗の建国と本化の大教」と題する講演を行ったあたりから徐々に完成されていった。
             〈『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』12p〉
と述べて、実証的にそれを裏付けようとしていた。

 続きへ
 前へ 
 “〝上田哲の「Ⅰ 賢治と国柱会」より〟の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東和町南成島(3/12、フクジ... | トップ | 〝上田哲の「Ⅰ 賢治と国柱会」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

法華経と賢治」カテゴリの最新記事