みちのくの山野草

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澤里武治苦渋の決断

2019-04-21 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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余談(その後如何相成りましたかHさん)
3 澤里武治苦渋の決断
鈴木 そのような苦悩が長い間続いていたことは、横田庄一郎氏の『チェロと宮沢賢治』の中の次の記述、
 沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた。あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、沢里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)116p>
からも覗える。
荒木 彼から何らかの圧力を受けていたってこともあったのか。
鈴木 そういうことになるだろうな。そして横田氏のこの記述に従えば、武治はある時点から晩年のある時点までは賢治に関する発言を封印していたということになる。実際、武治の長男裕氏がある時私に、
    父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。
と教えてくれたことがあった。また同様に、板谷栄城氏が『賢治小景』の中で、
という武治のエピソードを紹介しているから、武治は賢治に関しては一時期たしかに緘黙していたと言えるだろう。
吉田 武治がそうなったのもある意味当然だろう。
⑴ 一次資料の『原稿ノート』(昭和19年頃)では、
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。
⑵ 初出の『續 宮澤賢治素描』(昭和23年)では、
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。
⑶ 「宮澤賢治物語」(昭和31年『岩手日報』連載)では、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが
⑷ 単行本の『宮沢賢治物語』(昭和32年)では、
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが
だったのが、
⑸ 『賢治随聞』(昭和45年)では、
 ○……昭和二年十一月ころだったと思います。
と微妙に変えられ、あげく今度は突如、
⑹ 『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年)所収の「賢治年譜」で、
(大正15年)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。
とされたのでは、武治もたまったもんではない。武治の気持ちなどまったく汲まれていないということがありありだから。
鈴木 そのあげく、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三か月は滞在する」や「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」の「三か月」が全く無視されていて、武治の証言が恣意的に使われているのだから、『「私にとって賢治先生は神様です!不肖の弟子の私に、神様を語る資格はありません!」と言ったきり口をつぐんでしまいます』と苛立つのは当然のことだ。
吉田 また晩年に、武治が頼まれて講演するということがあれば、こういう状況下においては、
 あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、沢里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。
としても、その日のことを「どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが」とまでは流石に言えなかっただろうことも、容易に察しがつく。
荒木 晩年になって清六から許可は得たものの、今さら改めてその日のことを「どう考えても昭和二年十一月ころのような気がします」と強弁することには躊躇いがあった、ということな。
鈴木 そこで、あの新資料では、万やむを得ず妥協して年の方は「昭和二年」を「大正十五年」としたものの、月の方は「十二月」にせずに「十一月」のままにして、武治は己の意地をそこで示したのだった、と私も推察している。
吉田 だからだな、鈴木が以前に
 また、「澤里武治は終始一貫してそれは「11月」ころであると主張していた」ということは、裏を返せば、澤里武治が年は「大正15年」に変更したが、月だけは「11月」のままで変えなかったということはせめてもの彼なりの抵抗であり、矜恃だったとも言えそうだ。またそれは、私が澤里武治の立場になってみればその苦渋はよくわかる。
と語ったのは。
鈴木 そう、あの新資料において、
    大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
と武治をして書かしめたのは武治の気骨とプライドだったと私は確信している。言い換えれば、『チェロと宮沢賢治』における、
 沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(投稿者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 
〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
という記述が事実であったとしても、この「「大正十五年」というようになって」、は世間との折り合いを付けるための苦渋の決断であった、と私は判断している。
吉田 それは、新資料の記述が「大正十五年十一月末日」となっていて、単なる「大正十五年」ではないことからも言えると鈴木は言いたいわけだ。このように「十一月末日」がくっつけていれば、「自説を修正した」とは確かに言い切れない。武治もなかなかしたたか、やるではないか。
荒木 そっか、この「十一月末日」があるかないかがミソか。「苦悩の決断」ではあったものの「十一月末日」をくっつけて武治の意地を見せたということであり、気骨を示したということか。
鈴木 だから、この度の「澤里武治自筆の新資料」はいろいろな意味でとても貴重だと私は認識しているのさ。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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