みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

昭和3年6月に賢治が詠んだ詩

2016-10-19 08:30:00 | 「羅須地人協会時代」に詠んだ詩
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
 では、昭和3年7月に賢治が詠んだ詩はどのようなものがあったのか。『新校本年譜』によれば、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原 第一部> 
六月一四日(木) <三原 第二部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <三原 第三部>  <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。  
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>
ということで、6月に詠んでいた詩篇の数は、〈三原三部〉を三篇と数えて、計七篇であった。〈三原三部〉は長編だから、暫くぶりに詩の創作にかなり力を入れていたと言える。そしてそれは、上京したこと、特に伊豆大島行の精神的昂揚が為せる業であったのであろうことは容易に想像がつくものの、何か釈然としない点もある。

上京は「逃避行」?
 まずは、それぞれのメモについては翻訳すれば次のように、
 6/15(金) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、新橋演舞場
 6/16(土) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
 6/17(日) 帝国図書館、築地小劇場
 6/18(月) 帝国図書館、新橋演舞場
 8/19(火) 農商務省、新橋演舞場
 8/20(水) 農商務省、市村座
 6/21(木) 帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
というようになるのだろうか。
 もしそうであったとするならば、この頃故郷では「猫の手も借りいた」といわれていた田植え時期であるが、それに対してこの滞京時の賢治の「浮世絵鑑賞」そして何より連日のように観劇に出かけている賢治は私達が抱いている賢治像からはあまりにもかけ離れている。しかし、賢治は後程澤里武治にあてた手紙の中で
   …六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…
と語っているということだから、その様な観劇をしたということをこれは裏付けているとも言えそうだ。
 となれば、やはり佐藤竜一氏のこの時の賢治の上京は「逃避行」であったという見方は宜なるかなとも思えてくる。具体的には同氏は「東京への逃避行」において、次のように論じている。
 一九二八年六月八日夕方、賢治は水戸から東京に着いた。一年半ぶりである。
 前回の上京同様宿を神田錦町の上州屋に構え、早速政次郎宛の手紙を書いている。
 賢治は二週間ほど滞在したが、その間のことは詩に書かれている。「東京」と題する作品群が残っているのだ。
 東京についてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
 「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。

  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気にみえるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです 

 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行であったに違いない。…(略)…
 言論や集会の自由はもはやなく、表現活動への検閲が厳しくなっていた。
 大島に訪ねた伊藤七雄家では、歓待された。賢治は友人の伊藤七雄から、園芸学校創設に関する相談を受けていたのである。
 伊藤七雄は日本労農党に属しており、賢治は活動に理解を示していたからふたりには接点があった。
              <『宮澤賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)より>
つまり、「このときの東京行きは、現実からの逃避行であったに違いない」と。

 そして、その「労農党は解散される」についてだが、それは次のような連の最後に、
 <高架線>    一九二八、六、一〇、
   未知の青ぞらにアンテナの櫓もたち
      ……きらめくきらめく よろひ窓
        行きかひきらめく よろひ窓
        ひらめくポプラと 網の窓……
   羊のごとくいと臆病な眼をして
   タキスのそらにひとり立つひと
      ……車体の軋みは六〇〇〇を超え
        方尖赤き屋根をも過ぎる……
      タキスのそらに
      タキスのそらに
      タキスのそらに
   酸化礬土と酸水素焔にてつくりたる
   紅きルビーのひとかけを
   ごく大切に手にはめて
   タキスのそらのそのしたを
   羊のごときやさしき眼してひとり立つひと
      ……楊梅もひかり
          もひかり
        都市は今日
        エヂプト風の重くて強い容子をなせり……
      赤のエナメル
      赤のエナメル
           (安山岩の配列を
            火山の裾のかたちになして
            第九タイプの Bush を植えよ)
      江川坦庵作とも見ゆる
      黒くて古き煙突も
      タキスのそらにそゝり立つ

   六月の処女は
   みづみづしき胸をいだいて
   すくやかにその水いろのそらに立つ
       ……いとうるはしきひとびとの
         そぐへるごとくよそほひて
         タキスの天に立つことは
         束西ともによしとせり……
   地球儀または
   大きな正金銀行風の
   金の Ball もなめらかに
   タキスのそらにかゞやいて立つ
      街路樹は何がよきやと訊ねしに
      わが日本には
      いてふなどこそ
      ふさはしかりと技師答へたり
    わがために
    うすき衣を六月の風にうごかし示したるひと……
   ひかりかゞやく青ぞらのした
   労農党は解散される
              <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)>
というように唐突に登場していた。このような登場の仕方をどう解釈すればいいのか私にはわからぬが、そういえば、この年の4月の賢治年譜の中に「労農党の解散」に関する、
四月一〇日(火) 田中義一内閣は、この日安寧秩序を害するものとして労働農民党および日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体に解散を命じた。
 伊藤秀治(伊藤椅子張所経営)談。
「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」
と言う記載があったことを思い出してみれば、なんとなく見えてくるものがある。この不自然な唐突な「登場」の仕方に鑑みれば、やはり「労農党は解散される 」ということは、賢治の心の中に実は重くのしかかっていたことであり、この上京は少なくともこの「解散」を心の中に引きずっていたものであったということは否定できなかろう。

なぜ農繁期に上京?
 それにしても、6月のこの時期といえば農家にとってはまさに田植に関わる農繁期なのだから、何もわざわざこの時期を選んで賢治は上京せずともよかろうにと訝られることもあろうから、この時期に伊豆大島下りまで伊藤七雄を訪ねなくともよかろうにと私は思ったのだが、それを敢えてしていたのだから賢治は伊藤七雄とこの時期に是非とも会わねばならなかったのだということが逆に示唆される。
 したがって、もしこのときの上京が「逃避行」というのであれば、それは「現実からの逃避行」というのではなくて、これは大内秀明先生の著書やご教示から学んだことことでもあるのだが、実はもっと差し迫った「逃避行」であり、それは官憲の追及からまさに逃れるためのものであり、追及を紛らわすためであり、あるいはもしかすると伊藤七雄と賢治の関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性も否定できない(だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の伊豆大島行きはちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえにちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得るのかもしれない)。
 ちなみに、次の写真は、各人物の並び方や身なり等から判断して

             <『年表作家読本宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
伊藤七雄はあの大物政治家の「人間機関車」浅沼稲次郎との深い交流があったということや、当時の伊藤はその浅沼よりも重きをなしていた日本労農党の主要なメンバーだったに違いないといういことをも如実に語っているような気もしてくる(なお想像を逞しくすれば、浅沼は伊豆諸島の中の三宅島出身だから、伊藤が伊豆大島にて療養し、そこに農芸学校を開設しようとしたのも、浅沼が「地元の利」を活かしたからであったということも考えられる)。
 それからまた、この上京の際に、甲府、長野、新潟、山形のそれぞれに実際に立ち寄ったかどうかは定かではないが、これらの地名を賢治が『MEMO FLORA手帳』等にメモしているということは少なくとも旅行の際にそこにも立ち寄ろうと当初計画していたしていたことはほぼ間違いなかろう。したがって、賢治はもっと長期間にわたる「逃避行」を計画していたということも考えられる。
 もはやこうなってしまうと、この頃の賢治は〝地人〟からはほど遠い状態になってしまっていたとも言えそうな気がしてくる。それは、帰花後の賢治は伊藤七雄あて書簡〔240〕の下書(一)の中で
 こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。
                <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
と書いてあったということを知ればなおさらにそんな気がしてしまう。私の抱いていた賢治のイメージからすれば、帰花したならばそれまでの農繁期の故郷の20日間弱の留守を侘びて、それこそ「徹宵東奔西走」するとばかりに思っていたのだがそんなことではなくて、「しばらくぼんやりして居りました」ということになりそうだからである。もしかすると下根子桜の生活に賢治はそろそろ「折れ」始めていたのかも知れない、心も体も。

ちゑとの見合い?
 さて、『新校本年譜』によれば、昭和3年6月の上京は主に次の三つ「水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的」を持ったものであったという。この中の一つに、結果的にはそうだったかも知れないがなぜ「浮世絵展鑑賞」が入るのかの理由が私にはよくわからぬが、少なくとも「伊豆大島行き」があったということは間違いなかろう。
 ただし、その「伊豆大島行」が何のためだったのかということに関しては意見の分かれるところであろう。よく言われているのは伊藤ちゑとの見合いのためであるということだが、境忠一は、以前伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪ねた際に、
 賢治は伊豆大島を訪ねることを約束し、六月初旬、農産製造・水産製造についての研究のために上京しており、足をのばして、大島の兄妹を訪ねたのである。
              <『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社)>
と述べていように、その約束を履行するためだったいう人もあるようだ。
 しかし、少なくともこの「伊豆大島行」がちゑとの見合いのためだったということはなかろう。それは、ちゑが10月29日付藤原嘉藤治宛書簡
この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で
と述べているし、同じくちゑが森荘已池に宛てた手紙<*1>の中で
    たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ…
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162pより>
としたためていたことからは、昭和3年6月の「伊豆大島行」以前に、年老いた母に義理立てをして花巻を訪ねて既に見合いをしたということが言えるから、「見合い」は疾うに済んでいたと判断できるからである。
 しかも、ちゑが森荘已池に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の一節には、
 皆様が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られます御方に、ご逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の為に、私如き卑しい者の関わりが必要で御座居ませうか。あなた様のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆様の陰に隠れて静かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた事(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
            < 〃 157pより>
と書かれていることから判るように、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないとちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえしている。
 実際その「伊豆大島行」で賢治とちゑとの間に何があったかというと、ちゑ自身が森荘已池宛書簡において、賢治の
   ――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
              < 〃 145pより>
と述懐していたことから導かれるのだが、殆ど何もなかったということになろうから、「伊豆大島行」は少なくともちゑにとっては花巻での「見合い」をさらに進展させるためのものではなかったであろう。それは、昭和3年の「伊豆大島行」に関して時得孝良氏が学生時代に、ちゑを訪ねて本人から次のような聞書きを得ていることからも判る。具体的には、
 賢治に関する研究書や評論に、ちゑさんと賢治の関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和三年六月に大島で会った時も「おはようございます」「さようなら」といった程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものはなかった。
              <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)323p~より>
と述べられていることからもそのことが窺える。まさか、そのちゑの一連の対応の仕方から賢治がちゑの心の内を読むことはできなかったということはなかろう。
 一方で、藤原嘉藤治は『新女苑』において、この時の伊豆大島行に関して賢治が、
 「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
              <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
ということだが、これはせいぜいあくまでも賢治自身の認識に過ぎないだろう。あるいはもしかすると、この時の上京が「労農党との関連」であったということをカムフラージュするための賢治の一つの軽口だったということも私は否定できない。
 もっと敷衍すれば、この時の上京は実は差し迫った「逃避行」であり、それは官憲の追及からまさに逃れるためのものであり、追及を紛らわすためであり、とりわけ「伊豆大島行」は伊藤七雄と賢治の関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性も否定できないのではなかろうかという思いがまた私には強まってきた。だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の「伊豆大島行」はちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえにちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得るのかもしれない、ということも考えられる。

新たな道を模索し始めた?
 ところで、農繁期にあたる昭和3年6月のこの時期の上京だが、なぜ20日間弱もの長きにわたったて賢治は滞京していたのだろうか。『新校本年譜』には「水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって…」とあるが、先に述べた「官憲から逃れるための「逃避行」」もその大きな目的であり、しかもその他にまだもあったということはないだろうか。
 そこで、この滞京期間中の賢治を知るために、当時の政次郎宛書簡のいくつか以下に掲げてみよう。
◇ 235 6月7日付
  七日夜八時 仙台駅ニテ
十一時仙台に着きましてすぐ博覧会へまゐりました。水産加工品は特に注意して数回みましたがたゞいまのところはいかにも原始的なものばかりで仕事の余地はあり余るとは思はれますが、確かに今后の数年の間には、一方で著しく進んでゐる菓子その他精製工業の技術から影響を受けて細かなものは沢山出るやうになると存じます。但し農産製造品との連絡はまだ当分は着くまいと思はれます。いづれ詳しく東京で調べてまた申しあげるか新法を作るかいたします。
大学も見せてもらひました。阿部末吉氏には掛けちがって会へませんでしたが、また文学の方の教授たちと古本屋で浮世絵をいぢってゐるうちに知り合ひになったりもいたしました。汽車に少し間があって少々停車場で待ちくたびれて居ります。
明朝五時には水戸に着き公園等を見て八時から農事試験場に参り多分明夕方東京に入ります。みなさま何卒お疲れにならぬやう、祈りあげます。わたくしの方の今度の旅は大へん落ち着いて居りましてご心配ありません
◇ 236 6月8日付
 今夕無事東京に着きすぐに前の上州屋に泊ることにいたしました。明日以后約十二日はこちらに居りまして予定の調べをいたしたいと存じます。こちらも暖かさは大して変りありません。ご健勝を祈り奉ります。
   八日夜
◇ 237 6月12日付
 六月十二日朝
お変りはございませんですか。わたくしはお蔭で鯣の方の調べは大てい済み方法も前の考と大した相違なく充分やれる確信がつきました。次は昆布と松の葉、それから例の味噌ですが松の葉だけはこんどはできないかもしれません。
稲作の方はいゝ報告ができてゐて大ぶ手間が省けました。今日一日泊りで大島へ行って参ります。
船も大きく安心であります。みなさまお疲れないやう祈りあげます。
             <いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
 したがってこれらの書簡からは、賢治は水産物等に関する「新たな事業」に取り組もうとしていたのでもあろうということなどが推測できる。〝詳しく東京で調べて〟とか〝予定の調べ〟ということあれば、花巻を発つ前から賢治は父政次郎とその話をつけていたに違いない。そして父にはその調査のためには長期間を要すると念を押した上で賢治は旅に出ていたのであろう。さらに、その調査をするということを理由にしておそらく賢治はこの長期間の滞京費用を父から出して貰ったに違いない。当時賢治がその費用を自力で捻出する術は殆どなかったであろうからである。それにしてもこの時の長期間の滞京の大きな目的の一つが「新たな事業」に関わる〝予定の調べ〟だったとでもいうのであろうか…。
 私とすればまず気になることは、これらの書簡からは(書簡の中の「稲作の方はいゝ報告ができてゐて大ぶ手間が省けました」をどのように解釈すればよいのか迷うところではあるが)、上京中の賢治は故郷花巻の農民たちのことなどはそれほど気掛かりでなくなってしまっていたのかも知れないということである。因みにそれは「こんどの旅は大へん落ち着いて居りましてご心配ありません」と賢治がしたためていることからも窺える。ということは逆に、この旅に出る前は何かあるトラブルがあったのだが、旅に出たならばそれはひとまず落着し、『父さんには心配をかけたが、心配しなくてもいいですよ』と賢治は父に伝えていたのだというような解釈もできる。旅行に出た賢治の心中は穏やかであったのだ…。いや穏やかというよりは、賢治は後程澤里武治にあてた手紙で
    …六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…
と語っていることを併せて推測すれば、この長期間の滞京は賢治にとっては大好きな浮世絵を沢山見ることができ、築地小劇場などで演劇を幾度か鑑賞したり、丸善に行って本も沢山買ったりと、楽しくて嬉しくて仕方ない、寝る間も惜しむような(?)充実した日々を送っていたに違いない、とついつい邪推してしまう。なぜならば、この時期は田植えなどで猫の手も借りたいといわれるほどのまさに農繁期のこの時期であるはずなのだが、賢治ははたしてどれくらい故郷花巻の農家・農民や田植えの進捗状況を案じていたのかがこれらの書簡からはあまり伝わってこないからだ。そしてそれは、大きな目的の一つが「新たな事業」に関わる〝予定の調べ〟だったということについても同様あまり伝わってこない。

『MEMO FLORA手帳』の示唆
 それは、とりわけ『MEMO FLORA手帳』の存在とその中身を私が知ってしまったからでもあろう。具体的には、土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌醍号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉によってであり、この論文は賢治の『MEMO FLORA手帳』と原著(特にFelton著『BRITISHU FLORAL DECORATION』)との対応関係を解析したものだという。
 さてまずこの手帳だが、それは何時ごろ使われたか。同手帳の104pに

すなわち、
 16 図、浮、[築、→P]
 17 築
 18 新、
 19 新、
 20 市、
 21 図、浮、本、明、
 22 ―甲府
 23 ―長野
 24 ―新潟
 25 ―山形
               <『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
というメモがあることなどから、土岐氏は同論文中で
    使用時期は昭和三年六月八日~二十二日までの間。
と判断を下している。つまり、「伊豆大島行」を含む、「逃避行」とも見られる昭和3年の滞京中に使われたと判断していることになる。言われてみればたしかにそうであろう。
 さてその手帳の中身、使用状況と内容だが、同論文によれば、
A(手帳本体)
 1~12p :植物の学名列挙と一部説明
 51p  :植物の学名と和名列挙
 55~62p:植物の学名・和名列挙と一部説明
 82~88p:『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋筆写他
 90~91p:『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋筆写
 101~102p:著者名、洋書名、旧帝国図書館の請求番号
 104p  :日記風簡略メモ
B(挟み込み手帳断片)
 1~4p :植物の学名列挙と一部説明
C(挟み込み手帳断片)
 1~2p ::『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋スケッチと植物の学名
となっており、この手帳の総ページ数は110頁だが、使用している頁の合計は39pであるともいう。
 また土岐氏は、同論文では特に、
    『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの原文抜粋筆写及び写真のスケッチ
について原点との照応を試みたと述べていて、同論文の「第三章『MEMO FLORA手帳』と『BRITISHU FLORAL DECORATION』との照応」において、それを詳述している。具体的には、次のようなそれぞれの照応について原典と比較検討している。
  手帳          原著
  A82pスケッチ  ⇔ 5p白黒写真
   83p       ⇔ 17p
   85pスケッチ  ⇔ 20p白黒写真
   86・87pスケッチ ⇔ 33pカラー写真
   88pスケッチ  ⇔ 37p白黒写真
   90・91p     ⇔ 183p
  C 1p       ⇔ 13p白黒写真
  C 2p       ⇔ 16pカラー写真
その原典と写真のスケッチを同論文において見比べてみると、なかなか賢治のスケッチが上手くて感心する。また一方で、昨今はコピー機があるからこのようなことをせずともあっという間に原典のコピーができるからありがたいことだと思いつつも、このようなスケッチ等にかなりの手間と時間を要したであろうということもまた想像に難くない。
 そこで湧いてくるのが次の疑問である。なぜこの時期に賢治はこのような『MEMO FLORA手帳』をかなりの手間と時間をかけて作ったのだろうかと。言い換えれば、この時の上京の目的は、『新校本年譜』によれば、昭和3年6月の上京は主に次の三つ「水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的」を持ったものであったということだが、このうちのどれにもこのことは当てはまらないような気がするし、それより何よりこの時期農繁期で忙しい貧しい農民たちのことを考えれば、差し迫ったことではなかろうと思われるからであり、優先順位が違うのではなかろうかという疑問が私には湧くのである。
 まあ、強いていえば、「伊豆大島行き」に関わって、
 (伊藤七雄の)胸の病はドイツ留学中にえたものであったが、その病気の療養に伊豆大島に渡った。土地も買い、家も建てたという徹底したもので、ここで病がいくらか軽くなるにしたがって、園芸学校を建設することになり、宮沢賢治の智慧をかりることになったのである。
              <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)191pより>
とか、
 (伊藤七雄は)体がよくなってくると大島に園芸学校を建てようと思いつき、その助言を得るため、羅須地人協会で指導している賢治を訪ねてきた、というわけである。
              <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、昭和41年発行)243pより>
ということだから、伊藤七雄の「園芸学校」設立のための準備として、「伊豆大島行」を終えた後に帝国図書館に行って調べたとも考えられるが、もしそうであったとしたならば、普通は「伊豆大島行」の前にそれをしてから伊豆大島の七雄を訪ねるのではなかろうか。あるいはまた、そうであったとしたならば少なくとも帰花後に七雄に宛てる書簡の中にその調査結果が報告されると思うのだが、次の下書だけしか公になっていないとしても、
  240〔昭和三年七月初め〕伊藤七雄あて 下書
お手紙ありがたく拝見いたしました。
はなはだ遅くなりましたがその節はいろいろと厚いおもてなしをいただきましてまことにありがたうございました。先月の末おきまり通り少し眼を患ひながら帰ってまゐりました。畑も庭もぼうぼう、かくこうはまだやって居り、稲はもうすっかり青い槍葉になってゐました。水沢へは十五日までには一ぺん伺ひます。失礼ながら測候所への序でにお寄りいたしまして、ご安心になるところ、ならぬところ、正直に申しあげて参ります。
花のたねはみんなありふれたものばかりですが、そのうちすこし大事のところをお送りいたしますからあれで充分お手習ひをねがひます。次にはかの軟弱不健全なる緑廊は雨で潰れるかはじけるかいたしませんか。  こちらも一昨日までは雨でした。昨日今日はじつに河谷いっぱいの和風、県会は南の方の透明な高気圧へ感謝状を出します。
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
となっていて、残念ながらその報告は明記されていない。
 一方では、『新校本年譜』によれば賢治は後(昭和5年4月以降)しばし毎日のようにいろいろな花についてもメモを残しているようだから、賢治はこのときの上京を境に、あるいは切っ掛けとして新しい企て、「園芸事業」に乗り出すことを思い付いたという可能性があるのではなかろうか。言い換えれば、昭和3年の6月頃になると賢治はもはや、下根子桜にこれからも居続けて今までのような活動をする困難さを覚り、新しい道に進むことを模索し始めたということはなかろうか。
 それゆえ、土岐氏が同論文の最後の方で、
 このように見てくると、「MEMO FLORA手帳」は、帰花後の園芸活動に役立てるためにわざわざ用意した一冊の手帳に、かねてより考えていた園芸植物についての新しい情報を書き込み、さらに、図書館で発見した夢あふれる花の装飾についての新情報を書き加えた実用のための手帳であったと考えてよいのではないだろうか。
              〈『弘前・宮沢賢治研究会誌醍号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)97pより〉
と判断していることを知り、それは肯えるものであった。私にとっては教わることが多々あった論文だった。

<*1:註> 森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
 女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ、娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
               <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>
と綴っているということだから、この見合いは老母のことを慮って等のものであり、しぶしぶのそれであったことがわかる。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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「新しい道に進むこと」 (大内秀明)
2016-10-20 09:06:05
 先日は、花巻での写真などお送りいただき、有難う御座います。皆も、大変喜んでおります。
 この度はまた、拙著、拙論にもお触れ頂き、多少お役に立っている点、嬉しく思います。
 賢治の大島行きは、単なる逃避行ではない。見合いなど論外、浮世絵や観劇も「ついでの話」だと思います。
 弾圧への対応、「新しい道に進むこと」の相談だったと思います。
 産業博、水戸の農事試験場、その上での大島行きで在京中も、「新しい道」のために動いていたのではないか?
 「新しい道」は、例の「ポランの広場」以来の産業組合青年部の活動で、父親とも協力の上、七雄の協力も得て準備に入ったように思います。その点では、羅須地人協会の発展でもある、そんなことも考えています。賢治は大変だったと思います。
 ご参考までに。
ご教示有り難うございます (大内 秀明 様(鈴木))
2016-10-20 19:17:54
大内 秀明 様
 今晩は。
 いつもいろいろとご教示賜り、有り難うございます。

 実はこの度、『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』を知人からお借りできまして、教え子たちの追想を映像で見ることができました。例えばその中では、
《長坂俊雄》(大正11年入学)の
『ざまあみろ、というのは日本で一番悪いところ。人の不幸を喜ぶという。それを賢治は、社会主義者賢治がストップしてるもの』
という追想や、
《朝倉六朗》(大正13年卒)の
『私は計画的に先生は10分ぐらい時間を後にとったと思うんですよ。50分授業のうち40分ぐらいはぴたっと授業をやって。ここだけは忘れるなと言って○をし、そして後の――いつもではなかたんですよ、たまたま、その10分は自分の読んだ本の感想を言ったり…(投稿者略)… 教科書以外の授業を10分間ぐらい時たまやる先生だった。あれ、余ってるんじゃなかったと思うですよ。計画的に先生がそういうことをやったと思うんですよ。必ず本を読み出すと、その本の感想なんかを始終、こういう本の中にこういうことがあったということを、よく言われる人だったんですよ』
という追想に対して、鳥山氏が『覚えているのがありますか』と訊くと朝倉は、
『はっきり覚えてはいないけど、よくレーニンの話をしたんです。レーニンはこう言った。本当のレーニンの思想は今スターリンに引き継いでいないと。レーニンを尊敬したようなことを言って、本当はスターリンというのはレーニンの思想を本当に引き継いでいないというようなことを、あとちょっと聞いた気がしますね。だからあの頃の私にとっては、ずいぶん過激な話をするものだなと』
という回答を知ることができまして、私は次のように認識を改めつつあります。

 まず、「よくレーニンの話をしたんです」という回答からは、賢治はしばしばレーニンに関する話をしたであろうということが推断できます。しかも、「覚えているのがありますか」という問いに対して朝倉が「ずいぶん過激な話をするものだなと」いう印象を長らく持ち続けていたということがわかりますからこのことと、早坂が「社会主義者賢治が」と言い直しいることとが重なると、つまり、賢治本人の認識はさておき、教え子たちから賢治は「社会主義者」と、そしてその一部からは「かなり過激な社会主義者」と見られていたということはもはや否定できなくなってきました。

 つきましては、この度の大内先生からのご教示の、
 「新しい道に進むこと」の相談だったと思います。
を、私なりに今度は探ってみたいと思います。

 末筆ながら、御地も朝晩は寒さが増してきていることと存じますので、どうぞご自愛下さい。
                              鈴木 守

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