みちのくの山野草

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2007 論文「賢治と労農党」

2011-02-16 08:00:00 | 賢治関連
         《↑『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)》

 やっと名須川溢男の論文「賢治と労農党」を見ることが出来た。それは『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』の中にあった。

 今回はその中の〝四 労農党と羅須地人協会〟を引用させてもらう。それは次のような中味である。
   四 労農党と羅須地人協会
 労農党稗和支部は大正一五年十二月一日、花巻町花巻座において、三十余名で結成された。軽便鉄道、製糸工場工員、時代に不満をいだく若者たち、農民、教員などであった。地人協会で肥料設計をたのむ貧農などももちろん党支部事務所に出入りしたわけである。こんなことが、ところが不思議にいままで明らかにされていなかった。
○労農党支部事務所について――「もっと便利な広い場所のしやすいところを賢治にたのんだ、屋賃などもだしてくれた。そして宮右(賢治の本家)の長屋をかりることになった」(高橋慶吾談 S45・3・1採録)
 「賢治さんは……中心になってくれた人だった……おもてにでないで私たちを精神的、経済的に励ましてくれた」(照井克二談 S45・6・16採録)
などと当時の党員や支持者は秘かに語るのである。
○労農党稗和支部役員――支部長泉国三郎、執行委員萱栄三郎…(投稿者略)…伊藤文治(以上和賀郡)その他煤孫利吉、照井克二、高橋慶吾など
○労農党盛岡支部役員――支部長森田政次郎、執行委員小館長右衛門、…(投稿者略)
○小館長右衛門が語る――「私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
 八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
○労農党事務所の机、椅子など――「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」(伊藤秀治=伊藤椅子張所 S45・2・23採録)
…(投稿者略)…
 さらに、高橋末治(花巻市堰田、明治三十年生)は「組内の人六人宮沢先生に行き地人会を始メたり我等も会員と相成る。」(昭和二年二月四日)と日記につけている。このように賢治は、実践運動にとりくんでいたのである。日本の帝国主義、全体主義体制、その侵略戦争がはじまらんとしていたとき、賢治の尽力により羅須地人協会と労農党稗和支部は活動していた。しかし全体主義体制側の政治権力は、この両者の活動に恐怖し、警察権(特高)による特別監視や事情聴取などをおこない、弾圧してきたのであった。社会主義とは関係ないとか、地主小作制度の矛盾には目を向かなかったなどと言う人びともいるが、賢治のほんとうの営為活動を知らなければならぬ。

     <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)より>

 ここまで見てきて、〝『年表作家読本 宮沢賢治』〟で山内修氏が書いている事柄
(ア) 労農党支部事務所としてもっと便利で広いところを賢治に頼んだならば、宮沢長屋を借りることができ、家賃も賢治が払った。(高橋慶吾)
(イ) 賢治は表に出ないで精神的、経済的に支えた。(照井克二)
(ウ) 賢治は同事務所の保証人になり、八重樫賢師を通じてその運営費を支援した。また演説会などで激励のカンパをした。実質的な中心人物だった。(小館長右衛門)
(エ) 昭和3年2月初め、謄写版一式と『これタスにしてけろ』と言って20円のカンパを同事務所に置いていったと聞く。(煤孫利吉)
などはこの〝四 労農党と羅須地人協会〟に確かにあることが判った。ただし、最後の項目(エ)だけはいまのところ見当たらないが、おそらくそれもこの論文の後の方に出てくるのだろう。
 一方、山内氏の方になくてこちらにあるのが
(オ) 賢治は羅須地人協会の机やテーブル、椅子などを同事務所宮沢賢治に貸したと聞いている。(伊藤秀治) 
である。

 さて、とりあえずここまでこの論文を見てきて思うことは、名須川溢男は採録した人物も、その期日も明らかにしているし、複数の人間が同様な証言をしているということからこの論文の中に綴られているこれらの証言はかなり信頼度が高いものとなろう。
 したがって、ここまでの証言などから
 労農党員側から見れば賢治は労農党稗和支部の実質的な中心人物だったと思う人がいるほどの、宮澤賢治は労農党の強力な支持者であった。
と言えるのではなかろうか。

 ついつい〝労農党と賢治〟を投稿した時点においては、『宮澤賢治は労農党の熱心なシンパではあったが、はたして賢治が〝実質的な中心人物だった〟のか否なのか』と半信半疑だったが、こうなると
  賢治は労農党稗和支部のシンパ以上の存在であった。
と結論せざるを得なくなってきた。 

 なお、この論文の中には最後に気になる〝六 賢治を孤立させ、挫折させたもの〟という章もあるのだが、それは次回へ。 

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