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3655 賢治の花巻農学校退職のまとめ

2013-11-27 08:30:00 | ・涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
1.関連する証言や書簡
 さて、今まで調べてきた賢治花巻農学校退職に関する証言や書簡などを一通り調べてみた。時系列にしたがってその内容を簡潔に表して並べてみるとだいたい下記の通りとなろう。
◇大正14年2月頃:教え子松田浩一の証言
 先生は「教師はじめじめしていやだ。おれはやめることだが、家から逃げて桜さ移るから皆遊びにきてくれ」と言っていた。
◇大正14年4月13日付杉山芳松宛書簡
 わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。
◇大正14年6月25日付保阪嘉内宛書簡
 来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます
◇大正14年6月27日付齋藤貞一宛書簡
 わたくしも来春は教師をやめて本統の百姓になります
◇大正14年12月1日付宮澤清六宛書簡
 この頃畠山校長が転任して新しい校長が来たり私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあったものですからつい遅くなったのです。
◇大正14年12月23日付森荘已池宛書簡
 ご親切まことに辱けないのですがいまはほかのことで頭がいっぱいですからしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。延びました。
◇大正15年1月15日に関する証言
 宮澤家の別荘を改修:大正15年1月15日(金)に、八重樫倉蔵、民三の兄弟大工に頼んで下根子桜にあった宮澤家の別荘を改修した。
◇大正15年3月頃:愛弟子柳原昌悦の証言
 職員室の廊下で掃除をしていたら、「いや、おれ今度辞めるよ」とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。
◇大正15年3月の春休み:同僚堀籠文之進の証言
 大正十五年三月の春休みに入ってから、――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
◇愛弟子菊池信一の証言
 高野主事と議論したことが原因のようだが、国民高等学校の卒業式が大正15年3月27日に賢治は同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
◇同僚白藤慈秀の証言
 宮沢さんはいろいろの事情があって、大正十五年三月三十一日、県立花巻農学校を依願退職することになった。あまり急なできごとなので、学校も生徒も寝耳に水のたとえのように驚いた。本意をひるがえすようにすすめたけれども聞きいれられなかった。退職の理由は何であるかとといただす生徒も沢山居たが、いまの段階では、その理由を明らかに話されない事情があるからといって断った、という。
◇大正15年4月:教え子小田島留吉の証言
 花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあった
◇大正15年4月:愛弟子柳原昌悦証言
 私たちが二年生になるとき、何人かが中心になったと思いますが、鼬幣の稲荷さんの後ろの小高い所ある小さな神社の境内に集まって、宮沢先生退職反対のストライキ集会を開いたのでしたが、宮沢先生の知るところとなり「おれはお前たちにそんなことされたって残るわけでもないから、やめなさい」との一言で、それはまったく春の淡雪のように、何もなかったかのようにさらりと消えてしまいました。
2.総括
 以上が今まで調べてきたものである。そしてこれにかてて加えて次の書簡、
◇大正15年4月4日付森荘已池宛書簡
 お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ちょっとでも出たいのですがどうなりますか。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
を併せて考えてみれば、次のような結論を導かざるを得ないと私は考えている。
(ア) 少なくとも大正14年の2月頃には花巻農学校の教員をしていることに対する不満を公言するようになり、その職を辞して大正15年の春には「本統の百姓」になることを考え始めていた。
(イ) ところが、14年12月1日付宮澤清六宛書簡「私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあった」ということからも推察されるように、同年11月中旬に行われた奇妙な校長人事(年度途中にもかかわらず校長の人事があり、それも花巻農学校と東白河農蚕学校との間の校長入れ替えという奇妙な人事)が、さらに賢治の花巻農学校の退職に何らかの影響を与え、それを前倒しすることを賢治が考えていたであろうことが否定できないことがわかる。
(ウ) そして、大正14年12月頃の賢治は、学校をやめて一月から東京へ出ることを考えていた。そしてその時期は延びてしまったが、森荘已池宛書簡の中の「東京へその前ちょっとでも出たい」ということから明らかなように、羅須地人協会に移り住んでからもそれを諦めていなかった。つまり、羅須地人協会に移り住んで、そこでひたすら「本統の百姓」に専心しようとしていたわけではないことが解る。上京することへの絶ちがたい強い思いがずっと続いていた。
(エ) 大正15年初め頃既に、農学校を辞める辞めないはさておき、賢治は豊沢町の実家を出て下根子桜の別荘に移り住もうと心に固く決めていたことはほぼ間違いなかろう。さりながら、賢治の花巻農学校の退職は年度末が追し詰まってからの唐突で衝動的な退職劇であったし、その退職理由もどうやらすっきりしたものではなかったと言わざるを得ない。

 なお、この他に考えなければならない大きな一つとして、弟清六が除隊となり、家業を引き継ぐことになったことがあるが、その点については私はまだよく解っていないので今後の課題としたい。

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