八重樫賢師北海道へ奔る
名須川溢男の先の論文には「労農党稗貫(ママ)支部」について次のようなこと
も述べられていた。
そうか、天皇はその際に紫波郡の城山や、なんとここ花巻にもやってきたのか。そんなこともあったために、花巻周辺では特に「アカ狩り」の取り締まりが徹底していたということなんだ、おそらく。そして、例えば羅須地人協会に出入りしていた八重樫賢師は北海道へ奔ったということなのか。
花巻の御野立所
ならば、花巻日居城野におかれたというその〝御野立所〟なるものを見に行かなければならぬと思っていた矢先、ある人からその話が出てその祈念の塔が建っているということを教わった。早速その場所を教えてもらって行って見てきた。
あの大谷翔平投手や菊池雄星投手を輩出した花巻東高校の近くにそれはあった。
《1 手前の枠内がその場所》(平成25年3月4日撮影)
《2 ちなみにその奥の白堊の建物が花巻東高校》(平成25年3月4日撮影)
《3 この中央の剣のようなものが御野立所祈念塔》(平成25年3月4日撮影)
天皇がここに「野立」したのは昭和3年10月6日だが、この塔そのものが建ったのは1940年(昭和15年、皇紀2600年)の際のようだその2年後の昭和5年であった。
右手の石柱には〝皇紀二千六百年記念〟と彫ってあるが、それは純粋にこの石柱がその記念に建てられただけのことのことのようである。
《4 『御野立所祈念塔寄付者』》(平成25年3月4日撮影)
”『昭和3年賢治自宅謹慎』の目次”に戻る。
続きの
”御野立所の訂正と補足”へ移る。
前の
”花巻警察署伊藤儀一郎”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る
名須川溢男の先の論文には「労農党稗貫(ママ)支部」について次のようなこと
同志は八重樫健志(ママ)(故人、花巻市鍛治町、昭和三年秋陸軍大演習の時、天皇行幸のため―県公会堂大本営、紫波郡城山、花巻市日居城野は御野立所―他の労農党同志とともに危険人物と目をつけられ、逮捕を逃れるため函館に逃走、その地に死す)…
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>も述べられていた。
そうか、天皇はその際に紫波郡の城山や、なんとここ花巻にもやってきたのか。そんなこともあったために、花巻周辺では特に「アカ狩り」の取り締まりが徹底していたということなんだ、おそらく。そして、例えば羅須地人協会に出入りしていた八重樫賢師は北海道へ奔ったということなのか。
花巻の御野立所
ならば、花巻日居城野におかれたというその〝御野立所〟なるものを見に行かなければならぬと思っていた矢先、ある人からその話が出てその祈念の塔が建っているということを教わった。早速その場所を教えてもらって行って見てきた。
あの大谷翔平投手や菊池雄星投手を輩出した花巻東高校の近くにそれはあった。
《1 手前の枠内がその場所》(平成25年3月4日撮影)
《2 ちなみにその奥の白堊の建物が花巻東高校》(平成25年3月4日撮影)
《3 この中央の剣のようなものが御野立所祈念塔》(平成25年3月4日撮影)
天皇がここに「野立」したのは昭和3年10月6日だが、この塔そのものが建ったのは
右手の石柱には〝皇紀二千六百年記念〟と彫ってあるが、それは純粋にこの石柱がその記念に建てられただけのことのことのようである。
《4 『御野立所祈念塔寄付者』》(平成25年3月4日撮影)
”『昭和3年賢治自宅謹慎』の目次”に戻る。
続きの
”御野立所の訂正と補足”へ移る。
前の
”花巻警察署伊藤儀一郎”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る
「歌」を聴かれて「紀元」の歴史認識もさることながら、画像内の馬上のサーベル姿の場景を見られて、「天皇行幸」当時をお考え願いたかったのです。
お陰様で、66歳になって初めて「皇記二千六百年」の歌を聴けました。ありがとうございました。ただし正直ちょっと複雑な心境でした。
ところで、その〝皇記二千六百年〟はこの記念塔建立の時期ではなくて(塔の建立年は昭和5年でした)、塔に向かって右側の石柱が立てられたのが皇記二千六百年にだったということのようでした。
先ほどこの件につき投稿いたいしましたので、今後ともご指導のほど宜しくお願いいたします。
鈴木 守
何年か前靖国神社の処を通ったら、「皇記二千六百年」の歌が。学校で子供のころ紀元節の日には式典があり歌わされた。昨年孫の七五三を大宮八幡神社で行われたのに呼ばれて参加。そこのロビーの柱に「教育勅語」が額に入れられて飾られていた。学校の式には「教育勅語」がセットであった。
勿論戦前までであるが。
日居城野は小学年の遠足場所であった。懐かしい。つい一言失礼。