みちのくの山野草

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3163 伊藤儀一郎からの事情聴取

2013-03-26 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治より愛される賢治に》
 前に触れた『阿部晁 日記』に関連してだが、この阿部晁の息子には長男千一や末弟末吉なる人物がいる。二人とももちろん花巻の出身だが、ともに賢治の盛岡中学時代の先輩でもある。
阿部千一 
 『いわて人国記 33』によれば
 千一は賢治より三級上で、賢治が盛中に入学して寄宿舎入りした時、その十二室の室長だった。後年十三歳の新入生賢治を回想して「自分からさきに立って、ランプを掃除するような生徒であった。別に室長である自分が言ったからではなかった」(筑摩書房「宮沢賢治研究」)と書いてある。
 賢治が四年の時、寄宿舎では舎監の排斥運動が起こり、リーダー格の千一は盛中を退学した。賢治らは彼の復学運動を始めたが失敗に終わり、千一は単身上京、のち東京帝大法学部に進んだ。
                <『昭和50年6月10日付け讀賣新聞岩手版』より>
そして後に千一は岩手県知事を務めた。
阿部末吉 
 一方、末吉も盛中の一級先輩であり、そこの寄宿舎自彊寮で同室になった際のことを前掲『人国記』において
「当時の盛中では、一学期ごとに寄宿舎の部屋替えをしていたので、いつだったか、私も賢治さんと同じ部屋になったことがあった。ある日、彼が私にいたずらっぽい笑いを浮かべながらこんなことを言うんです。小遣い銭に困った時、町の共同便所を壊してしまったので弁償しなければならないとおやじに言ってやったら金を送って来た―。普通の生徒なら、本を買う金がないと言うところなんです。茶目ッ気のあった賢治さんはいつもこんな調子でね―」
                <『昭和50年6月10日付け讀賣新聞岩手版』より>
と語っている。末吉は後に東北大学教授、そして岩手大学に応用化学科が新設された際に招かれて教授を務めた。
                 ****************************************
 ついつい、『阿部晁 日記』を借覧できて、そこから「喉から手が出るほど欲しかった「下根子桜時代」の天気等のデータ」を入手できたのでしばし横道に逸れてしまいました。再び元の道に戻って「昭和3年賢治自宅謹慎」の投稿を再開いたします。
伊藤儀一郎からの事情聴取
 さて、阿部晁の息子達の話はこのくらいにして、この『阿部晁 日記』に記載されているある注目すべきことに気付いたのでそのことを次に述べたい。
 それは、『阿部晁 日記』における次のような記載である。
【大正十五年】
○一〇月三日
[往来・往] 前署長菅沢松三郎/新署長伊藤儀一郎両氏歓送迎会
【昭和二年】
○六月二四日
[往来・往] 伊藤小川両警察署長歓送迎会 公会堂
              <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』(宮沢賢治学会イーハト-ブセンター)167p~より>
ということは、
・大正15年10月初めに花巻警察署に新署長伊藤儀一郎がやって来たので歓迎会をし、
・昭和2年6月末に伊藤儀一郎は花巻警察署を去ることになったので送別会を行った。
ということになろう。なんとあの〝伊藤儀一郎〟がこの日記に登場しているのである(「新校本年譜」によれば伊藤儀一郎のこのときの在任期間は大正15年9月25日~昭和2年6月18日となっている)。
 すると思い出されるのが、以前〝八重樫賢師の生家訪問(続き)〟で触れたことだが、あのインタビューで境忠一氏の質問に対して堀尾氏が
 これは左翼的な思想や、社会主義の立場からではない――いわゆる危険思想での取り調べではなかったようです。
と答えていたところの、賢治が伊藤儀一郎から受けた事情聴取である。
 そして、この事情聴取については「日時不明」となっていたので、私は以前
 賢治が伊藤儀一郎から事情聴取を受けた時期はまさしくこの時期昭和3年8月頃であったと考えることはそれほど的を外れていないかもしれない。
述べたのだが、これは撤回せねばならなくなった。この時期に伊藤儀一郎もやは花巻警察署にはおらず一ノ関警察署に異動していたからである。
 そして、先の不明だというその「日時」は次のように狭まってくることになる。
 賢治が花巻警察署長伊藤儀一郎から事情聴取を受けのは、
  少なくとも大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間
にである。
とその期間が絞られることになる。そしてその際の事情聴取は堀尾氏の言うとおり「いわゆる危険思想での取り調べではなかった」であろうし、その取り調べもそれほど厳しいものではなかったであろう。このときならば「特高」は実質的にはまだスタートしていなかったからである。
賢治再度事情聴取の可能性
 しかしこうなると、賢治は花巻警察署長伊藤儀一郎以外からも後に事情聴取を受けていたと考えざるを得ない。具体的には、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして行われた徹底した「アカ狩り」の際にも賢治は警察から事情聴取されていたと見るべきだろう。川村尚三や八重樫賢師との関連等からして賢治が特高からマークされなかった訳はないからだ。おそらく賢治も他の「危険人物」と同様8月頃に、新設されたばかりの特高から、まさしく
 左翼的な思想や、社会主義の立場からの――いわゆる危険思想での取り調べが行われた。
であろうこと、そしてその結果、賢治は昭和3年8月10日に実家に戻って蟄居した、という可能性が否定できないのではなかろうか。

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