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新たに検証できたことなど

《賢治研究のさらなる発展のために》
 それでは、今までに新たに明らかにできたことなどを基にして仮説を定立し、かつ検証できた結果等のうち、その主なものを以下に挙げてみる。

(1)  「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れない。
 仮説:千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
が検証できたからである。

(2) 千葉恭が賢治のところに時に来ていたということの客観的な裏付けができた。
 『拡がりゆく賢治宇宙』の中の「楽団のメンバーは…(略)…時に、マンドリン・平来作、千葉恭…(略)…が加わることがあった」という記述は、阿部弥之氏が直接平來作から聞いたことを記したものであり、しかも千葉恭の長男と三男が共に父はマンドリンを持っていたと言っているから、恭は時に羅須地人協会に来ていた、ということが裏付けられる。

(3) 現「賢治年譜」の大正15年12月2日は訂正が必要である。
 仮説:賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
が検証できたからである。
 少し詳しく言うと、澤里武治の証言「澤里武治氏聞書」、
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
と、柳原昌悦の次の証言、
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども(柳原と同僚でもあった菊池忠二氏の取材による)。
に従えば、
大正15年12月2日
  柳原昌悦、澤里武治に見送られて上京。
大正15年12月末
〔推定〕 チェロ一式を購入し、大津三郎から三日間のチェロの特訓を受ける。
昭和2年1月1日
  一年の計「本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課」を立てる。
昭和2年9月
  上京、詩「自動車群夜となる」を創作したと見られる。
昭和2年11月頃
 霙の降る寒い夜、賢治はチェロを背負った教え子澤里武治と花巻駅へ行く。そして、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれ はやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」と澤里に言ってチェロを持って上京。
昭和3年1月
 3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり帰花。漸次身體衰弱。
とする方が現「賢治年譜」よりも遥かに矛盾がない。しかも、〝今までに明らかにできたこと〟で掲げたあり得ないはずの改竄㉔があるということが逆に、通説となっている「賢治年譜」にとって澤里武治の件の証言が不都合であるということも示唆してくれている。

(4) 「昭和六年七月七日の日記」における高瀬露に関する記述は事実とは言いがたいものが多い。
 それは、まずは、
 仮説:森荘已池の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった。
が検証できたからである。
 さらには、
(ア) 森が「下根子桜」を訪ねた際に露とすれ違ったのは「通説では1927年の秋」だが、森本人はそんなことは言ってはおらず、『宮澤賢治追悼』『宮澤賢治研究』『宮澤賢治と三人の女性』『宮沢賢治の肖像』『宮沢賢治 ふれあいの人々』のいずれの場合も1927年以外の年としている。
(イ) 『宮澤賢治と三人の女性』の中で、森荘已池は露とすれ違ったのは「一九二八年の秋の日、私は下根子…、」としているが、同書で西暦が使われているのはこの個所だけで、その他の38個所は皆和暦である。
(ウ) 「昭和六年七月七日の日記」の次の記述
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。彼女はそれほど眞劍だつた。
とか
 彼女の思慕と恋情とは焰のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた。
とかは、〝今までに明らかにできたこと〟で掲げた⑱~⑳等からその信憑性が危ういことが判るので、「風聞」のごときものである。
(エ) 当時森は重病であった。
 昭和2年に森荘已池は「心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。昭和三年六月、病の癒えた荘已池」と道又力氏が「文學の國いわて」(道又力著、平成26年2月16日付『岩手日報』連載)で述べているからである。したがって、この道又氏の記述によれば、「一九二七年の秋の日」に療養中の森が「下根子桜」を訪問することは難しかった<*1>であろう。
ということなどが言えることからおのずから導かれる帰結でもあろう。つまり〈露悪女伝説〉はかなりあやかしなものであり、せいぜい風聞の如きものである。

(5) 「羅須地人協会時代」の賢治は、「ヒデリノトキハナミダヲナガ」すことも「サムサノナツハオロオロアル」いたこともなかった。
 賢治は、大正15年の大旱害の時に賢治は一切救援活動をしなかったどころか、全く無関心であったと言わざるを得ない。また、昭和3年の夏の40日をも超える「ヒデリ」の場合には今度は「ナミダヲナガシ」たりする必要がなかったから、結局、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言うことができない。しかも、「羅須地人協会時代」に冷害はなかったから、賢治はその時代に「サムサノナツハオロオロアルキ」したわけでもない。
 つまり、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たわけでもなければ「サムサノナツハオロオロアルキ」したわけでもない。だからこそ、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と書いたのであろう。

(6) 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」という訂正の仕方は妥当である。
 「雨ニモマケズ」は「ヒドリ」の部分以外は全ていわゆる「標準語」であるから、「ヒドリ」もやはり「標準語」であると判断できる。ところが、対句表現「ヒドリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」に注意すれば、それが意味をなすような「標準語」は存在しないから〝×「ヒドリ」→〇「ヒデリ」〟という判断は合理的である。
 これに対して和田文雄氏は、〝 「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた〟という主旨のことを述べ、「ヒドリ」が南部藩の「公用語」であれば標準語からなる〔雨ニモマケズ〕の中でそれが使われてもおかしくないから「ヒドリ」で正しいと主張しているが、肝心の、それが南部藩の「公用語」であるとことを裏付けているといって和田氏が「引用して転載」した原典『南部藩百姓一揆の研究』の中にそのようなことは記述されてはいない。
 なお、「ヒデリに不作なし」という言い伝えがあるから「ヒデリ」は農民にとっては歓迎すべきことなので「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たりすることはないという論理によって、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と訂正するのはおかしいと主張する人もいるが、大正15年の紫波郡内の大干魃による惨憺たる凶作を知れば、「ヒデリでも不作あり」という事実があったということを容易に認識できるので、この論理は無理である。
→「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」という訂正の仕方は極めて妥当である。

(7) 福井規矩三の「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という証言は事実誤認である。 
 福井規矩三が「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」と証言しているせいだろうか、時どき、
 わたしたちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。
とか、
    一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
という賢治研究家の記述に出会うが、当時の客観的な気象データなどに基づけば「一九二七年」は冷温多雨の夏でも、天候不順の夏でもないし、まして凶作でもない。つまり、福井規矩三のこの証言は事実誤認である。 

(8) 「今日はそろってみな起きてゐる」は虚構である。
 S2/8/20付「和風は河谷いっぱいに吹く」の中の連、
   十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
   わづかの苗のつくり方のちがひや
   燐酸のやり方のために
   今日はそろってみな起きてゐる
に、「今日はそろってみな起きてゐる」という状態にあると詠んでいるが、「和風は河谷いっぱいに吹く」とその下書稿である、S2/7/14付「〔南からまた西南から〕」とを『阿部晁の家政日誌』等から知ることができる当時の花巻の天気等を下に比較して考察してみると、この状態は事実とは言い難い。なお、もちろん虚構が駄目だなどと私は言っているわけではない。

(9) 高瀬露は〈悪女〉などでは決してない。
    仮説:高瀬露は聖女だった。
が検証できたからである。ただし、この検証結果は巷間流布している〈悪女伝説〉と全く逆だから、現状ではそこまで私はごり押しするつもりはない。さりながら、拙論「宮澤賢治と高瀬露」を読んでいただければ、
    高瀬露は聖女の如き人であり、少なくとも〈悪女〉などでは決してない。
ということは理解してもらえると思う。

(10) 昭和3年8月の「下根子桜」撤退の真相は「自宅謹慎」であったと言える。
 仮説:昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。
が検証できたからだ。
 この時のことについては、
 一九二八年の旱魃の際も、東京・大島旅行の疲れを癒やす暇もなく、イモチ病になった稲の対策に走りまわり、その結果、高熱を出し、倒れたのである。
というような書き方を多くの賢治研究家がしているが、私が検証した限りではこのようなことはない。たしかに、「一九二八年の旱魃」はあったが、ただし、「疲れを癒やす暇もなく、イモチ病になった稲の対策に走りまわり」ということはほぼあり得ず、「その結果、高熱を出し、倒れたのである」という因果関係が確かであったという裏付けがあるわけでもない。ただ、かつての「賢治年譜」に
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
とあるから、それを検証もせずに昨今でも相変わらず再生産しているだけだということを否めない。
 ちょどそれは、先に“ある卒業式の式辞から”で引用した石井学部長の、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。
という危惧の、典型的な一つの例だと言えそうだ。

 それにしても、かつての「賢治年譜」のこの記述を賢治研究家の誰一人として再検証していないように見えるのだが、なぜなのだろうか。私はとても不思議でならない。

<*1:注> 『新校本年譜』は、「その時(昭和3年に賢治)は病臥中なので本年(昭和2年)に置く」と判断しているが、もしその論理で判断するのであればそれと同じように、「その時(昭和2年)に森荘已池は病臥中だったので本年(昭和2年)には置けない」という論理も当て嵌めなければならないから、この判断は不備である。

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 拙著既刊案内
(Ⅰ)『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

(Ⅱ)『羅須地人協会の終焉-その真実-』

(Ⅲ)『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京』

(Ⅳ)『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて』

 近々出来予告
(Ⅴ)『「羅須地人協会時代」の真実 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』


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