すずりんの日記

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小説「雪の降る光景」第3章17

2008年06月21日 | 小説「雪の降る光景」
 私は天井を仰いだまま目を閉じ、内なるナチスとしての私の声に耳を傾け続けた。

 我々はかつて、民衆を苦しめ悪政を行っていた前政権を崩壊させ、それらに携わった者たちを重刑に処した。そして民衆を我々の信じる道に導いたのだ。
 そのことが「悪」だと言うなら、これから同じことを繰り返そうとしている彼らは何なのだ。彼らだって正義を振りかざしているだけの人殺しだ。我々と、どこが違うというのだ。我々を悪だと責めるならば、なぜ我々について来た?なぜ賛同したのだ?命惜しさに正義を曲げて悪に付くような人間に、我々を非難する権利があるのか。彼らはただ、集団で居たいだけなのだ。我々が罰せられるならば、我々に今まで一言でも賛同した奴らも同罪だ。違うか?
 私は、たった一人で反ナチを訴えて処刑されていった者たちが許せないのではないのだ。我々の眼が光っている時には平気で反ナチの者たちを処刑し、その死骸を蹴り、踏みつけ、見せしめのために逆さ吊りにし、その死骸が朽ち果てていく横を狂喜しながら通り過ぎ、「でも私はそうしたくてしている訳ではありません。我々はナチスに脅されて仕方なくやっているのです」などと不運な自分を精一杯慰めている。ごく数名の反ナチ指導者を祭り上げているそういう奴らを許すわけにはいかないのだ。
 彼らは、総統と同じ目をしている。狂気の申し子、アドルフ・ヒトラーの目だ。彼らは“正義を理解し訴えている”のではなく、“熱狂している”のだ。彼らにとって、処刑直前の処刑場はコンサート会場であり、そこに連れて来られた受刑者はそこで歌を歌う代わりに死ななければならない。彼らの狂気はそこでピークに達し、高々と一心不乱に振りかざされている拳と意味をなさないかん高い叫び声が、一段と激しさを増す。
 それが、健全な精神を持った民衆のやることなのか。・・・いいや、違う。それくらいは、悪名高いナチスの一員である私でもわかることだ。


(つづく)

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