みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

一人で

2015年10月26日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章54−73節

 食べ物の話題が続きます。先週月曜日に拾わせてもらった栗で、渋皮煮と栗鹿の子を作りました。小さな栗なので皮むきが一苦労。でも二人でしたので思ったよりも短い時間で終了。早速栗鹿の子入りのロールケーキを作ってもらいました。きのう、礼拝に出席した人はこのほっぺたの落ちそうなマロンロールケーキを食べられたのです。(食べ物のために礼拝に参加するのではありませんが、いっしょに食べるというのは大切なこと)でも、子どもたちはグミなどのお菓子が大好きなようでした。

 きょうの箇所には、一人で問題に直面したペテロと主イエスとが対照的に描かれています。

 ペテロは一人で大祭司の庭にいましたが、ここで彼はイエスとの関係を否定、しかも三回も否定するのです。彼にはこの時、女性のことばに動揺するもろさがありました。自分の身を守ろうとして、イエスを知らないと三度言ってしまいます。

 イエスはお一人で、権力者たちの尋問を受けましたが、ご自分がキリストであると明言されました。主は、ご自分の身を守ろうとするのではなくて、真理を守ろうとしたのです。ですから、権力者たちの前で「わたしはそれです」とお答えになります。キリストであると認めたら、神を冒瀆している罪で死刑に定められたことでしょう。

 もろくも、たとい何があってもあなたといっしょに…との決意は、どこかに行ってしまいました。そんなペテロにイエスはまなざしを注いでおられました。そして、そのまなざしでペテロは我に返り、罪を悔い改めて激しく泣くのです。

 イエスのまなざしは、私にも…。


あなたのために祈りました

2015年10月24日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章24−38節

 ダルムシュタットでいただいたのは栗だけではなくてリンゴも…。そのまま食べてもとても美味しいのですが、きのうの夕方ジャムとコンポートを作りました。コンポートは白ワインで煮てみました。どちらも大変美味しいできあがり。コンポートにヨーグルトはとてもよい組み合わせです。アイスクリームも合いそうですね。

 聖餐を制定された主イエスとの食卓での弟子たちの関心は、「この中で誰が一番偉いだろうか」ということだったようです。彼らは、偉くなって多くの人に傅(かしず)かれるようになりたいと考えていたようなのです。その彼らの心をご存じだった主は、偉くなってはならないとはお教えにならず、真に偉いのはどのような人なのかをお示しになりました。それは弟子たちが思い抱いていたこととは違っていたのです。主ご自身がこの食事の席でしもべとしての模範をお示しになったのに、彼らの心は偉く、偉くという関心でいっぱいでした。

 ペテロを「シモン、シモン」と主がお呼びになったのは、彼の弱さを覚えてのことだったと考えられています。サタンにふるいにかけられ、信仰がなくなるほどの体験をするとの主のことばに、そのようなことは決してしないと胸を張ります。しかし、彼の確信に満ちた答えは、この後数時間後にもろくも崩れ去ってしまうのです。

 「みことばの光」が書くように、ここを読んで私たちは、「弟子なのに…」とか「ペテロはだめだねぁ」などとは決して言えません。いや、初めはそんなふうに見るかもしれませんが、やがてここに自分の姿を見いだすとしたら、もう笑ってなどいられません。

 そんなもろさを見越して、主はペテロに「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」とおっしゃるのです。何とありがたいことばでしょう。


わたしを覚えて

2015年10月23日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章14−23節

 遊びに来ていた孫たちがきのう帰って行きました。空港で、上の孫は「また来るからね。バイバイ!」と大きな声でお別れのことばを言ってくれました。聞いていた空港の職員も、まねをして私たちに「バイバイ」と言いました。そして、ニコッ。ちょっぴり寂しいですけれども、二人の日常に戻りました。

 きょうは「最後の晩餐」の場面を読みました。何度も読んできた箇所ですが、今回は主イエスの二つのことばを心に留めました。まず、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」というおことばです。「…どんなに望んでいたことか」ということばに、弟子たちへの思いがどのようなものだったが響いてきます。

 次に「わたしを覚えてこれを行いなさい」ということばに目が留まりました。パンを裂いて弟子たちにお与えになるときにおっしゃったものです。

 自分は聖餐式にどのような思いで参加してきたのだろうか、主が喜びとしておられる食卓なのだということがどれだけわかっていたのだろうか、などを思い巡らしてみました。厳粛な思いでパンと杯に預かるとともに、主との豊かな交わりの喜びを心に満たして聖餐に臨みたいと思うのです。


十字架への備え

2015年10月22日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章1−13節

 食べ物の話が多くてごめんなさい。拾わせていただいた栗を、きのうはゆでてみました。小さな栗ですが、やめられない止まらない味、でした。

 全く違った動機で、イエスの十字架の準備、すなわちイエスの死の備えがそれぞれ進められていたというのがこの箇所です。

 何とかしてイエスを殺そうとする祭司長、律法学者たちに、この時ぞとばかり弟子の一人ユダが話を持ちかけます。「…ユダに、サタンが入った」ということばは、読むたびに緊張をおぼえます。「みことばの光」が書くように、ユダが主の十字架のため、神のご計画のために用いられたとの同情は当たりません。人は自分でしたことの責任を誰かのせいにすることはできないのだということも、ここから覚えることです。

 主イエスは過越の食事のための準備を自らしておられました。主がおっしゃったとおりにすべてが進むのを体験したペテロとヨハネはがのような思いだったのだろうかと、読むたびに想像してしまう箇所です。また主が整えられたということからは、この過越の食事は主が弟子たちを招いてなさるものだと確認できます。この食卓には、金と引き換えに主を引き渡すことを約束したユダも連なるのです。


滅びることのないもの

2015年10月21日 | ルカの福音書

ルカの福音書 21章20−38節

 

 たくさん拾ってきた栗はまず、…栗おこわになりました。 小さな栗なので、皮むきをコツコツとしました。でも、こちらの栗には虫が全くいません。餅米、栗、塩、醤油少々、みりん。圧力鍋で加圧後6分でできあがりました。こんなにも甘い栗だったとは思いませんでした。ごちそうさま!

 きょうの箇所の前半にある主イエスの予言は、紀元70年のローマ帝国によるエルサレム破壊というかたちで成就しました。「みことばの光」が書くように、主はこの出来事と二重写しにするようにして終末に何が起こるのかをお語りになります。やがて主は、「力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくる」のです。この時を初代の教会を初めとして代々の教会はどれほど待ち望んだか、そして待ち望んでいることでしょう。

 心に留めたのは「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」とのことば。この世にあるものは生々流転、何一つとして永遠に残るものはないということに、身の引き締まる思いですが、それとともに、決して滅びないものがあり、それが主のことば(ここで主がお語りになっている未来のことだけでなくて、神のことばである聖書)であるということに、安らぎを得ます。目の前にあり決して滅びない、神のことばを読むことのできる喜び、それに基づいて自分を、そして周りを見ることのできる確かさなどを思います。

 それとともに、「聖書を真剣に読め」との促しもおぼえます。


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