みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

信仰がますます強くなって

2011年11月05日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙4章13-25節


 アブラハムという名前は、意外に多くの子どもたちに知られているのではないでしょうか。
 土曜日午前の「子ども英会話」。小学校1年生から4年生までのこのクラスは、始まりから終わりまでずっと英語(当たり前)。意味を説明しないので、流れはスムーズ。それでいて戸惑ったりつまらなそうにしている子どもはいません。みんなが先生から聖書の登場人物の名前をつけてもらい、クラスの間はその名前で呼び合っておもしろがっています。

 祈りで始まり、聖書のお話、子ども賛美歌、ダンス、スキット、終わりのお祈りというように進む「教会学校英語版」です。その中にアブラハムの歌があります。体操の要素も含まれているこの歌を、子どもたちは楽しみにしているようです。
 
 でも、「アブラハムは私たちのお父さんだよ」と子どもたちに言ったら、びっくりするでしょうね。
 今から4000年以上に生きたアブラハムと、2000年前のパウロ(ローマ人への手紙の著者)、そして今を生きる私たちをつなぐものがあるのだというのが、きょうの箇所からわかります。
 
 心に留まったのは、「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し…」とのことばです。年齢的にはもう死んだも同然のアブラハムと妻のサラ。神の約束を現実のものとするために、自分たちができることはまったくなくなってしまいました。「もうだめだ!」と思うようなときに、神を信じたのです。

 「信仰がますます強くなって」ということばは「自分の力はますます弱くなって」ということの裏返しのようにも思われます。イエス・キリストを信じてはいても、どこかで自分の力に頼っているなぁ、と振り返りました。




 


罪をおおわれた人は幸い

2011年11月04日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙4章1-12節


 「おおう」「おおいをかける」というと、何となく「臭いものには蓋(ふた)」と、あまりよい印象はしません。  福島第一原発の放射能汚染問題で、福島県では多くの地域で土壌の除去が進められていると報じられています。問題は除去した土壌の置き場所。恒久的な保管施設が設置されるまでの間は、「中間貯蔵施設」に収容するといわれますが、ここにも乗り越えなければならない多くの課題があるそうです。
 「とりあえずはシートでおおって」ということになるのでしょうか。
 
 「突然の来客!」で、あわてて部屋のものを押し入れやロッカーに放り込むなどというのも、「おおい」の一つかもしれません。でも、押し入れの中やシートの下には、ごちゃごちゃとしたものがあり続けるのですよ。

 パウロはダビデによって謳われた詩篇32篇を引用します。
 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
  幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」

 ダビデは、隣人の妻を奪い、うそを重ね、人殺しをするという大きな罪を犯しました。最初彼は、自分の罪を自分でおおうための画策を巡らしますが、預言者によって罪を指摘されてしまいます。
 「私は主に対して罪を犯した」(Ⅱサムエル12章13節)は、人間による最も美しいことばだと思います。そう、罪を自分でおおい隠さずに主に申し上げる人を、主はゆたかに赦してくださるのです。
 「みことばの光」には「罪をおおわれるとは、罪を隠すことではない。神に罪を赦していただくという大いなる恵みは、私の罪がおおわれてしまったかのようだと、表現している」とあります。

 神の大いなる恵みに、感謝し尽くすことができません。
 ありがたいことです。






どんでん返し

2011年11月03日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙3章21-31節


 「どんでん返し」というのは、舞台の大道具を次の場面にぐるりとひっくり返すことを言っていますが、物事が一気に正反対に変わるという意味でも使われています。
 放射能による汚染にも「どんでん返し」のようなことがあったらよいのにと願いますが、コツコツ時間をかけて回復を目指すことしか道はないようです。
 直接間接に原発の影響を被っている方々が、希望を捨てないようにと祈ります。

 「しかし」ということばには「どんでん返し」の力があります。
 「私たちを罪の暗闇から神による救いの恵みという光へみちびくことば」だと、「みことばの光」にあります。

 人間はすべて、それ自身では救いようがない罪人。しかし、神はこの人間を救おうとされた…。どのようにして?
 
 この箇所では「すべて」ということばに目が留まります。
 「信じるすべての人に与えられ、…」「すべての人は、罪を犯した…」
 罪を犯して神からの栄誉を受ける道をまったく閉ざされてしまったすべての人を、神は義とみとめようというとてつもないご計画を実行に移されたというのです。

 ことばが違うからだめ、収入が足りないからだめ、男だから女だからだめ、障害があるからだめ、背が低いから高いからだめ、目の色が違うからだめ、子どもだから年寄りだからだめ、…人間が設けそうないっさいの「だめ」「例外」を排除して、イエス・キリストを信じるすべての人を、神は義と認めてくださるのです。

 これが「福音」でなくて何でしょう。





悲しい証言

2011年11月02日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙3章9ー20節


 まずはおわびを…。ブログの更新が大変遅くなりましてすみません。
 言い訳になりますが、きょうは土曜日に予定している「バリアフリー・ウォッチング」というイベントの事務局長の務めの追い込みをしていました
 この催し、市内の障がい者施設、市役所の職員、社会福祉協議会の職員、民生委員、そして市民の中からの参加者がいっしょに街を歩いて、調べて、障がいのある人も障がいのない人もともに住みやすい街をつくろうと、回を重ねてきました。けっこう街が良くなっているのですよ、これで。
 今年は、災害の際の避難所として指定されている公民館などのバリアフリー状況を調べることになっています。でも、しかめっ面して「あら探し」をするのでなくて、秋の街歩きを楽しみながら調べるというイベントなのです。

 街や建物は努力すればバリアフリーが実現しますが、神と人間とのあいだの隔たりを取り除くことは、我々の努力ではできないと、パウロはこの手紙のはじめの部分に書いています。

 きょうの箇所には、旧約聖書の多くの証言が並べられています。その証言とは、「だれも彼もが皆罪人である」という悲しいものです。神から律法が与えられていない異邦人(ユダヤ人ではない人のこと)はもちろんのこと、律法が与えられ、割礼も受けていることを誇りとしているユダヤ人も、ひとりの例外もなく神の前には罪人なのです。

 けれども、「みことばの光」が書くように、この証言が大切、罪の意識を持っているということが大切なのですね。「罪の自覚のないところには、救いを求めるたましいの渇きも生じない」のです。

 改めて、イエスさまの救いは何とすばらしいものかを、これら悲しい証言の数々を声を出して読む度に思います。

 


絶対にそんなことはありません

2011年11月01日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙3章1-8節


 「絶対に…!」ということばは、政治家ばかりでなく子どもたちの間でもけっこう交わされています。子どもたちの間で、相手に約束を守らせたり誓わせたりする場合に、「ぜってぇーだな!」と念押しをしている様子を見ることがあります。

 けれども、「絶対に…!」ということばが文字通り絶対だとは多くの方は信じていないのではないだろうか、と思います。決意の表われとしては受け取りますが、どこかで「絶対に…、と人間には守ることはできない」と考えているのです。
 何度「裏切る絶対」の約束手形を発行したことか。

 パウロはこの箇所で、「絶対にそんなことはありません」と二度繰り返しています。ついでに調べてみましたら、パウロはローマ人への手紙で10回も「絶対にそんなことはありません」ということばを用いているのです。
 (律法を神からいただきながら違反しているという)ユダヤ人の不真実によって、彼らをご自分の民としてお選びになった神の真実が揺るがされるのだろうか、絶対にそんなことはないとパウロが断言しているのです。

 それにしても、「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」とは、迫力のあることばですね。「みことばの光」の「祈ろう」には、「…『神は真実な方であるとすべきです』について、宗教改革者ルターは、『このことばは祈りだ』といっている。…」とあります。

 不真実な約束、言動、そして振る舞いが日常の中で、「神は真実な方であるとすべきです」と信仰を持って祈り続けることができる、信仰者の幸せを改めて噛みしめることができます。
 (だからといって、私たちが不真実でもいいのだということでは「絶対に」ありません)



2011-2024 © Hiroshi Yabuki