みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ただ神に感謝

2011年11月11日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙7章13-25節


 「ほんとうはしたくはないんだ。でも、手が悪いんですよ。するな! と思っても、手がひとりでによそ様の財布をとってしまうんだから、仕方がないんです。まったくどうしようもないな。俺の手は…。」スリの常習犯のセリフです。
 犯罪でなくても、自分の悪しき習慣を改めたいと心では思っているけれども改められないという、嘆きのようなあきらめのような、居直りのようなことばを時々耳にします。(私にも思い当たることは山ほどあります)

 パウロの戦いはすさまじいものです。笑ってなどいられません。
 律法が神によって与えられた良いものであると述べるパウロは、主イエスを信じて律法に心から従いたいと願うようになりました。だが、彼は自分には律法を守ることができないというみじめさを経験します。
 「みことばの光」にあるように、ここはパウロが、「自分が救われた者だということを前提として、罪との戦いの現実を率直に語っている」箇所なのです。

 もし、25節の前半がなかったならば、そして続く8章がなかったならば、次のようになるでしょう。
 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。…ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

 25節前半は、パウロの感動がはじけ飛ぶような一言です。
 そうです! 信仰者の喜びの基はこの一言。「ただ神に感謝します。」
 ほんとうに、ありがたいことです。



 


機会を捕らえた罪

2011年11月10日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙7章1-12節


 少し前に、「ブレーキなし自転車」が話題になりました。
 恥ずかしいことですが、私はそのとき、自転車には前後輪にブレーキをつけていなければならないという、道路交通法を初めて「自覚」したのです。違反して初めて、法律を意識するということもありますね。

 速度超過で引っかかった人が、「知らなかったんですよ。この道路が40キロまでだっていうこと」と言い訳をしている様子を見聞きしますが(私も引っかかったときに「急いでいたもので…」と言い訳にならないような言い訳をしてしまいました)、そんなときお巡りさんは、「さっきあなたがお通りになった道路の左側に『40』の標識がありましたよ」と優しく説明するのです。

 ここにも、パウロの「絶対にそんなことはありません」があります。
 古い自分が死んだのだから律法から解放されている、だから恵みが増し加わるために罪を犯そうなどというバカなことを言ってはならない、とパウロは話を進めているのです。
 そうするとまた、「それでは律法が悪いのだ」という声も出てくるのです。どこまでも人間は自己弁護を繰り返すものなのだと、自分自身を含めてあきれてしまいます。

 いや、律法が悪いのではなくて、「戒め(律法)によって機会を捕らえた罪が私を欺き」とパウロは話を正しい方向へと向けています。

 何が問題なのか、何が敵なのかを、見失ってはならないのですね。

 
 


罪の奴隷、神の奴隷

2011年11月09日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙6章15-23節


 奴隷と聞くと、いまの日本ではあまりピンと来ないという人が多いと思いますが、視点を変えるとそうでもありません。パウロは奴隷を「自分の身を捧げて服従する」人だと書いています。

 便利なものが増えています。スマートフォンは今年のベストヒットナンバーワンだそうですが、4年前にiPhoneが出た時には、「あんなおもちゃみたいなものだれが使うだろうか」とか「メールの文章が打ちにくいので流行らない」というコメントがたくさんありました。
 ところが、電車に乗って周りを見回せば、ざっと半分ぐらいの人が流行らないはずだったスマートフォンを使っています。
 でも、自戒を込めての警告を…。いつの間にか便利なものに依存し、それがないと不安だと思っている人。奴隷状態なのかもしれませんね。気をつけなければ…。

 「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」というとんちんかんな発想に、「絶対にそんなことはありません」と否定したパウロは、「奴隷」ということばを用いて、恵みの下にあるのだからこそキリストを信じる者は罪を犯さないのだと書いています。
 読んだ人は、「奴隷」ということばでパウロが言おうとしていることがよくわかったのでしょう。当時のローマには、奴隷制度が生きていたのですから…。
 罪から来る報酬、神の下さる賜物としての永遠のいのち、報酬と賜物ということばの対比が鮮やかですね。
 
 神の奴隷であることの自由を、キリスト者はもっと喜び、味わうことがあってもいいと、思いました。






立場を忘れない

2011年11月08日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙6章1-14節


 パウロはローマ人への手紙で「絶対にそんなことはありません」ということばを10度書いており、6章2節にもあります。
 「…罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」ということばを読んだ人の中には、「神の恵みが増し加わるのだったら、なお罪の中にとどまったほうがよい」と言う人がいたのかも知れません。
 パウロは断固否定します、「絶対にそんなことはありません」と。

 聖書なので当たり前といえばそうなのですが、きょうの箇所には「キリスト」ということばが目につきます。自分の立場を忘れてふらふらしている人々に、パウロは「キリストにある」「キリストとともに」あるキリスト者の立場を自覚するようにと、促しています。

 「イエスさまを信じたのだけれども、それでどうなったのかがはっきりわからない」ということならば、不安定な歩みになってしまうことでしょう。けれども、あれこれ忙しい中では、キリスト者であるという立場をどこかに追いやって、「ああ大変だ」「どうしよう」とあたふたしている自分がいます。
 「みことばの光」の祈りのことばを記します。
 「罪に勝利するために、キリストと共にあるという立場を忘れることがありませんように。」
 確かに、立場がはっきりしなければ戦えません。





恵みの場合は

2011年11月07日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙5章12-21節


 関東地方は暖かな日が続いています。お住まいの所はいかがですか。Dsc00122

 土曜日に障がい者施設、市役所や社会福祉協議会のスタッフ、民生委員、そして市民が参加して、「バリアフリー・ウォッチング」をしました。今回は、災害時の避難所に指定されている地域公民館を手分けして訪問し、バリアフリーの状態を見て回りました。
 公民館ですから、車椅子用のスロープはどこも設置されていたのですが、おそらく3月の大震災によるものでしょう、スロープと地面との間に段差が生じているのが何箇所かありました。2センチは車椅子にとってはかなり手強い段差となります。
 けっこうな距離を歩きましたので、日曜日には腰がちょっと…。日頃の運動不足がこのようなときに影響するのですね。

 この箇所を読んで、「だからアダムが悪いんだ!」などと言ってはなりません。アダムさえ神の命令を守っていたら、今ごろ私も悪い心で苦しむことはなかったのに、などと責任転嫁をするためにパウロが書いているのでは、もちろんありません。私たちは、自分の罪の責任を神さまの前に自分で負わなければならないのです。
 「アダムとキリストには、ひとりの人の行為が全人類に大きな影響を与えたという類似点がある」と「みことばの光」にあります。
 圧倒されるのは、「さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められるのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められる」(16節)ということば。
 パウロは、アダムとキリストとを比較して、その類似点を挙げるだけで終わってはいません。むしろ、二人のあいだの決定的な違いに目を留めさせているのです。アダムの違反によって死が全人類が死の支配下に服したのですが、キリストはすべてを支配するお方として、罪を犯した人間を市の支配からいのちへと移してくださったのです。

 何と晴れやかな行為なのでしょう。



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