みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

高ぶりは低くされ

2019年09月12日 | イザヤ書

たこイザヤ書 2章

 いただいた無花果(いちじく)。レンジで「チン!」をすると、甘味が増していちだんと美味しい、です。日本にいる時、隣の方が無花果をくださったことを思い出しました。

 「みことばの光」の「イザヤ書1−12章を読む前に」には、1−5章は本書全体の序論にあたり、神がご自分の民を告発するとともに、悔い改めた者への展望、希望が約束されているとあります。本章でも、1−4節には将来に約束される希望が、6−22節にはイザヤの時代のユダとエルサレムの罪の現状が語られます。

 1−4節では、終わりの日に何が起こるのかが預言されます。描かれているのは、主がおられるところにすべての国々が来て主のことばを慕い求めるという景色です。この4節を読むだけでもこの時を心待ちにする自分がいます。神のことばが語られ、あらゆる国の人々がそのことばによって歩むところには平和が訪れます。「彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」のです。

 しかしその後には、神がお選びになった民の現実が続きます。6−8節に描かれているのは、多くのモノにあふれている神の民の姿。人間の知恵、富、軍事力、そして多くの神々に彼らは囲まれているのです。人は安心のために多くのモノや人を自分の周りに置こうとします。「これで自分はだいじょうぶ」と安堵するのですが、そうでしょうか。

 10−18節には、モノにあふれたご自分の民を神がさばかれる様子が描かれています。目に留まるのは神が彼らのおごり高ぶりを低くされるということばの繰り返しです。自分たちの思いのままにことを行えることに高ぶっていた彼らは、神のさばきにあってこそこそと穴の中に逃げ込むのです。その時、彼らが頼りにしていた金や銀で作った神々は何の役にも立ちません。

 「ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」という5節の呼びかけが希望とさばきのメッセージの間にあることに目が留まりました。このことこそ人を希望に導くのか破滅に導くのかを分ける大切な鍵だということに気づきます。

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