みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ただで受けたのだから

2019年06月06日 | マタイの福音書

マタイの福音書 10章1−15節

 前に、今が薔薇の美しい頃だと書きましたが、通り沿いの野薔薇も「がんばって」咲いています。もちろんそれぞれのお庭の薔薇は花が大きく色合いも美しいのですが、小さな野薔薇が一緒になって咲かせている姿にも感動します。

 この箇所は、主イエスが12人をご自分の働きのために任命し、権威を授けて遣わされたことを書いています。12人の名前が並びますが、この福音書の著者マタイは、深い感慨とともに「取税人マタイ」と記したのではないかと想像するのです。

 彼らがするのは、イエスがなさったこと。1、7,8節にイエスが彼らにするようにお命じになったことがありますが、その中には人ができるはずがないと思うようなことも含まれています。それは、お選びになった12人が特別だということではありません。イエスが彼らに権威を与え、遣わされるからです。

 遣わされる先で、弟子たちはその働きのゆえに驚きをもって迎えられ、考えされることもあるでしょう。病む人を癒し、死人を生き返らせるなどする者ならば、大きな報酬を用意する人もいるかもしれません。主イエスは彼らに、「ただで受けたのですから、ただで与えなさい」と心得の一つをはっきりとお伝えになります。

 12人の弟子たちも、そして私たちも、だれ一人として救いを代価を払って手に入れた者はいません。払われたのは神の御子イエスのいのちという代価ただ一つです。私たちはただで受けたのです。この世のあらゆる富をもってしても手に入れることができないほどの価値のあるものだからです。ただで受けたというのは、安っぽいものだということを意味しません。あまりにも価値のあるものなので、自分の材をすべてつぎ込んでも誰一人得られないのです。だから「ただ」なのだと、何度も8節の終わりのことばを読み返しながらうなずくのです。

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