ヨブ記 34章1−15節
市北部の古い街並みが残る道を走っていると、工事のために普段通ることのできるが進入禁止。いわゆる区画整理などしていないので、いったんその地域に入ると、迷路をたどるようにしながら大通りに抜けることになります。まして工事中でしたので、あれこれと試行錯誤をしてようやく見慣れた景色の場所に「脱出」できました。
自分を正しいと主張し続けるヨブは、思考の迷路に入り込んでしまったようにも見えます。自分が正しいと確信していることによって、ヨブがいつの間にか神は不当だという疑問を抱くようになっていることに気づいたエリフは、ヨブが迷路から出るため働こうとしているとも読むことができます。
この章の初めで、エリフは知恵ある人々に、ヨブの主張を明らかにしています。なぜ彼は、このようなことをするのでしょうか。
これについては、エリフを好意的に見るのかそうでないのかによって評価が分かれるかもしれません。好意的に見る立場からしたら、エリフは自分がこれから語ることが知恵ある人々、良識のある人々も同意できるもっともなことばだということになります。けれども、エリフがヨブを冷ややかに皆の前で断罪しているという見方もできます。
10節以下でエリフは、神が絶対に正しい方だということを主張しています。このことについては、ヨブにもあの三人の友人にも異論はありません。しかし、度重なる厳しい試練の中で、その試練の意味が明らかにされない中で、ヨブのように神についてのこの確信を揺るがせてしまうようなことはあるのです。
神は正しいお方、間違ったことを私に決してなさることはないとの確信を、どんな時にも持ち続けることの必要を、ここから思います。