サムエル記第二 18章1−18節
ミュンヘン郊外のダッハウという町にある強制収容所跡を見学しました。罪人である人間が同じ人間をここまで痛めつけるのだということを思いつつ、神に懺悔しながらたどりました。それほど歩数がなかったにもかかわらず、なぜかとても疲れました。多くの人々が訪れていました。訪ねなければならない場所の一つなのです。
ダビデの子アブサロムによる謀反は、首謀者の死によって終わりました。この箇所では、謀反を犯したとはいえ、わが子であるアブサロムを気づかう父ダビデの痛々しい姿が伝わってきます。そして、ダビデの思いがいたいほどわかるダビデの兵士たちの姿も。その中で、将軍ヨアブの冷徹さが目を引きます。何と冷たい、という思いにも駆られますが、国をひっくり返そうとした者をこのようにしなければ…と判断しての行動なのです。そうはわかっていながらも、やはりヨアブの行動にはついていけないとの思いに駆られます。
ダビデは父親として、ここまでアブサロムを追いつめたのは自分の側にも大きな責任があると受け止めていたように思います。ですから、王を転覆してクーデターを起こしたとんでもない奴とは見ることができなかった、と考えるのです。 過ぎ去った時間を巻き戻すことはできません。「あの時にああすれば良かった」「こうしなければ良かった」と反省することはたびたびです。
神の前に「お赦しください」と言える道がイエス・キリストによって備えられていることのありがたさをここでも思います。