みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

良心のとがめ

2019年09月07日 | サムエル記第二

サムエル記第二 24章

 公園にはたくさんの林檎の樹があり、摘果などの手入れをしていないためか、そのような種類なのか、小さな実が色づいています。スーパーにも地元で採れた林檎が出始めています。

 サムエル記の終章は、読む者を戸惑わせます。ここにはダビデの罪が記されます。サムエル記の記述の多くはダビデのこと。神が羊飼の少年を王として選び、武勲を立てて認められ、嫉妬されいのちを狙われ、やがて王となっていくという一人の人物の出世物語だと見ることもできるかもしれません。けれども、この書の終わりは、ダビデが「有終の美を飾った」ということではありません。それは、どんな立派な人物であっても完全ではないということを伝えようとしているです。

 この章では、ダビデが人口調査をしたことと、そのことに良心のとがめを感じたダビデが神のさばきを甘んじて受け入れ、7万人もの民が死んでしまうということが書かれています。1節に「再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた」とあります。主がダビデをそそのかして人口を数えるようにしたという記述にも戸惑いを覚えます。並行箇所とも言える歴代誌第一21章1節には、「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした」とあります。サタンも神の許しなくしては働くことができないということが一見異なる記述についての説明になるではないでしょうか。

 ヨアブの賢明な助言をも振り切って自分のしたいことを貫いたあと、ダビデは「良心のとがめを感じ」ました。私はこのダビデの姿に教えられます。自分が何事かを成し遂げた時に、自分のしたことを数えてみようという誘惑に駆られます。けれども、それは神を退け自分を高めることに通じます。ダビデはやってみて、自分のしたことの愚かさに気づいたのです。それにしても、なぜ張本人のダビデを打たずに、大勢の民を…なのでしょうか。このことについてもすっきりとした答えは見いだすことができません。

 しかし、ここでもダビデは自分の犯した罪に気づき、それを神の前に告白しています。この一点を取ってみても、ダビデは偉大な神の民なのだという思いに至ります。


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