エレミヤ書 48章1−25節
秋晴れの下、お米の購入も兼ねて隣町まで往復10キロほどを歩きました。お昼はスーパーの精肉コーナーで買ったハンバーグを挟んだパン。行儀が悪いですが、畑道を歩きながら頬張りました。帰り道はお米5キロをリュックサックに入れて…。
48章はユダとは死海を挟んで東側のモアブへの神のことばです。モアブはアブラハムのおいのロトにまで遡ります。ソドムが火と硫黄で滅ぼされた後、ロトの二人の娘たちは父親との間に子を産みます。そして姉の子どもの名を、「父によって」という意味のモアブと名づけるのです。ちなみに、妹の子どもの名はベン・アミ「私の肉親の子」という意味で、モアブノ南にあったアンモンはその子孫でした。
この章には、豊かで平穏な生活をしていたモアブがバビロンによって滅ぼされる様子が描かれています。「平穏な生活のどこが悪いと言うのか」、「神は、なぜモアブをバビロンによって滅ぼされるのか」との思いも湧いてくるでしょう。その人がとても邪悪な行いをしているのならともかく、安らかに生活している国をなぜ…と考えるのです。11節はモアブの豊かさや穏やかさを表しています。
「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだ」と7節にあります。自分が作ったものとは、モアブが神として祭り上げていたケモシュを指しています。モアブの問題は拠り頼む相手が彼らを創造された神ではなかったということ、誇るべきものが彼らを豊かさで着飾らせた神ではなかったということです。
繰り返し読みますと、7節は今の時代にも言いうることではないでしょうか。私たちは平穏な生活のために、頼りにする何かを持っています。それが神だと言えるのは幸いです。