みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

きよめる神

2019年09月16日 | イザヤ書

イザヤ書 6章

 街路樹が色づく景色は、秋が駆け足でやってきたことを感じさせます。スーパーには、この秋収穫した林檎が並びます。小粒ですが甘酸っぱくて美味しいです。

 本章は、イザヤが預言者として神に召された体験が著されています。「ウジヤ王が死んだ年」とは紀元前740年ごろのことです。すでに5章まで進んでいる中で預言者の召命の記事があるのは、イザヤがどのような時代背景の中で預言者とされたかを強調しようとしているのでしょう。

 ここにはイザヤを預言者として召された神がどのようなお方かを知ることができます。1−5節は神が聖であると記します。イザヤはこの聖なる神の臨在を目の当たりにして、喜ぶどころか自分の汚れにがく然とし、恐ろしさにおびえています。神の前には人間のすべてがさらけ出されるのだというのもわかります。

 6−7節では、神が汚れをきよめ、罪を赦すお方として描かれます。セラフィムが燃え盛る炭を火ばさみで取ってイザヤの口に触れると、イザヤの罪は赦されたのです。「ああ、私は滅んでしまう」と自分の汚れを認め嘆く者を、神はきよめてくださるのです。

 そして、8−13節では、イザヤを預言者として遣わす神の姿が描かれます。改めて思うのは、イザヤが預言者として何かができ、優秀だから遣わされるのではなく、きよい神の前に自分の汚れを知る者であったので、きよめられて、遣わされることに至ったということです。改めて12−13節のことばを心に留めました。預言者としてのイザヤの働きは困難なものだとここからわかります。彼のことばは受け入れられず、耳を傾ける者はいない中で、彼はエルサレム、ユダがなくなるまで語るのだというのです。

 汚れを知ることが、神の働きに携わる者の第一歩なのですね。

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