みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

勇士たちは倒れた

2019年07月11日 | サムエル記第二

サムエル記第二 1章

 昨日は参議院選挙の在外投票をしてきました。総領事館の領事事務室のおよそ半分を投票所にし、受付係、立会い係の方ももいて、投票スペースもありました。日本での時よりもちょっと手間がかかりましたが、無事に投票を済ませることができました。さて、結果はいかに…。

 「みことばの光」は、きょうからサムエル記の後半部分を読んでいきます。そしてそれは、サウル王と息子ヨナタンの死をダビデが嘆き悲しんで、歌を詠むところから始まるのです。ギルボア山上にはこれまで二度ほど行ったことがありますが、その度にこの章にあるダビデによる哀歌を読みました。「ギルボアの山よ。高原の野よ。おまえたちの上に、露は降りるな。雨も降るな」のことばに接すると、景色が浮かんできます。 

 ダビデのもとにサウルが死んだことを報告したアマレク人の話は、Ⅰサムエル31章に記されていることと違っています。報奨金のようなものをあてにして作り上げた部分もあるようです。サウルに非がありダビデに義があるのは多くの者の認めることですので、ダビデはサウルが殺された、そして自分がサウルにとどめを刺したと言えば、きっと褒美がもらえると目論んだのですが、「主に油注がれた者に手を下して殺すのを恐れなかったのは、どうしたことか」として殺されてしまいます。

 考えてみれば、サウルからのダビデの逃避行の間、ずっと彼の心にあったのは、理不尽に自分のいのちを狙い続けるサウルが「主に油注がれた者」という認識です。ダビデは一貫してこれを持ち続け、一緒に行動する者たちにもそうあれと、求めました。神が油を注がれたのだから神が動いてくださる、との確信がダビデを支えたのです。神がお立てになったのだから、時がきたら神ご自身が引きずり下ろされるとして、ダビデは待ったのです。

 ですから、「弓の歌」と言われるサウルとヨナタンへの哀歌は、ダビデの心からのものでした。たとい自分のいのちを狙い続けたにしても、サウルは神が油を注がれたゆえに、主に用いられる「勇士」だったのです。

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