サムエル記第二 23章1−17節
夕方の心地よい涼風の中、買い物を兼ねて歩きました。スーパーの飲料売り場の店員さんはお年寄りにとても優しい方。対応を見ているとこちらもうれしくなります。
本章は、「これはダビデの最後のことばである」から始まります。人生を終えようとすることを悟った時、人はどんなことばを残すのだろうかと、改めて考えます。そして、1節には改めてダビデについての紹介のことばが並びます。
「エッサイの子ダビデ」というのは、ダビデがどの家族に生まれたかを確認させてくれることばです。彼は父エッサイに神が与えた8人の息子の末っ子でした。神がイスラエルの王になる者に油を注ぐためにエッサイの所にサムエルを遣わした時のこと。サムエルが「子どもたちはこれで全部ですか」と問うと、エッサイは「まだ末の子が残っています」と答えます。そして彼がダビデでした。
「いと高き方によって上げられた者」というのは、イスラエルの王となったということよりもむしろ、神を「あなた」と呼ぶように神との関係が非常に近いものだったという意味ではないかと考えます。
「ヤコブの神に油注がれた者」とあるように、ダビデは王となるべくサムエルによって任職の油を注がれました。それは、光栄なことでしたが同時に、重い責任を負わされるということでもありました。そして、新約聖書を読む私たちはエッサイの子ダビデの子孫としておいでになるメシアのことを思い浮かべます。
そして、「イスラエルの歌の歌い手」と紹介されます。ダビデは詩篇の多くを作り、さらにある詩篇はダビデと結びつけられます。その歌は、彼が人生で味わった喜びばかりでなく、苦難や悲しみを通される中で、神を忘れることなく歩んだことを証しする者です。数え切れない者がダビデの詩篇によって慰めや励ましを受けたことでしょう。
私も、その中の一人です。