サムエル記第一 23章
昼間がますます長くなり、礼拝後の時間感覚がつかめずにいます。昨日も気がついたら夕方の5時半。まだ4時半頃かと思っていたのですが…。10時近くでもまだ少し明るい頃です。
きのうの礼拝では22章を語りました。ダビデの逃避行地図を示したところ、お友だちから「ずいぶんグニャグニャしている」という感想。確かに、先が見えない中でサウルから逃れるダビデの道筋は、こんなにも曲がりくねったものなのだと、改めて思いました。
23章では、ダビデが主に伺いながら道をたどっているというのが印象に残ります。「ダビデは主に伺って」ということばに目が留まります。自分の先に何が待ち構えているから彼は、曲がり角のような所で主に伺い、主のことばの道へと進むのです。神はこの時、ダビデを守るためにダビデの問に直接答えてくださったのでしょう。
追う立場のサウルには「ダビデ情報」が飛び込んで来ます。サウルはそのような時に、「神は彼を私の手に渡された」と言ったり「主の祝福があなたがたにあるように」などとして、神を持ち出しています。けれどもサウルのそれは、ことばだけのことではなかったのかというのが、ここでの印象です。
「一足、一足、主にすがって…」ということばの讃美歌があります。私たちの毎日も同じではないでしょうか。格好つけではなくて、ほんとうに神に伺いながらの日々を目指す者でありたいと願います。