みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

福音を恥とは思わない

2016年09月20日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 1章8−16節

 外に出るとひんやりとした空気。いつものように、公園を一時間ほど歩いて戻って来たら、部屋の暖かさが心地よかったです。近くの公園を歩くようになって一年以上になりますが、きのうは新しい道を発見。森の中を秋の兆しを感じながら歩くことができました。

 いよいよ手紙の本論が始まります。

 パウロは16、17節で手紙の主題を提示しています。それは、福音とは何か、ということです。彼は「私は福音を恥とは思いません」と書きます。これは、パウロがいつでもどこででも堂々と福音を宣べ伝えてきたという意気込みを表わしているのではないように思います。時には福音を伝える上で困難を体験してきたことに基づいての、パウロの決意のように響いています。「みことばの光」が書くように、この部分が読まれたとき、そこに居合わせた人々は安堵したのではないかと想像をしてしまいます。「パウロのような人でも…」と。

 福音とは、ダビデの子としてこの世に生まれた神の御子が十字架で死んで復活したということです。ところがこれは、ユダヤ人にしてみたら、あのナザレ人イエスがメシヤ(救い主)であるものかというつまずきであり、ギリシヤ人やローマ人にとっては、十字架上で死んだイエスを信じるならば人が救われるという、いかにも愚かなこと、というようになってしまいます。そして、福音に対するこのような反応は今に至ります。

 もう少し人間の可能性、知恵に適うように…として福音をマイルドにしようとするような企ては、教会のはじめの頃から今まで何度も試みられてきたことです。しかし、そのようにした瞬間、福音は力を失い、福音ではなくなってしまいます。どうしようもない者を救うための道が、人間の力や浅はかな知恵などでどうのこうのと納得できるようなものではないのです。


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