みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

代わりに背負う

2019年11月16日 | イザヤ書

イザヤ書 53章

 もうすぐ始まるクリスマス・マルクトを前にしたこの時期、森の木々は色づいた葉を一枚、また一枚と落としていきます。どのように週末をお迎えになりましたか。

 本章は「苦難のしもべ」について預言されている箇所としてよく知られ、ここに描かれていることは預言者イザヤの時からおよそ700年後、エルサレム郊外のゴルゴタにおいて十字架に架かられたナザレの人イエスによって実現しました。神はご自分の民を、すべての人々を解放するために油注がれた者メシアをお遣わしになると約束しておられますが、前章の終りにあるように、油注がれた主のしもべは、人々の予想や期待とは全く異なったことによって、救いをもたらすのです。

 それは、罪ある者たちの罪や咎を自分で背負うということによったのです。この章には「担う」「負う」ということばが多く登場します。死に値する罪を主のしもべは自ら負うのです。他人の不始末の責任を変わりに負おうと進み出る人はどれほどいるだろうかと考えます。それどころか、自分の犯した悪事やミスを、誰かののせいにするようなことが普通に行なわれます。

 主のしもべが私たちの病、痛みを担い、咎を負い、罪を背負うのはなぜかと改めて思います。自分と親しい家族、友人のためならば、いわゆる一肌脱ぐというようなこともあるでしょう。けれども、自分を痛めつけ、ののしりあざける敵のような、いや敵である者の代わりに背負うのです。パウロのことばをおぼえます。神さま、ありがとうございます。

 「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ人への手紙5章6−8節


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