申命記 28章15−37節
きょうの「みことばの光」には、この箇所を読んでいるうちに「何とも言えない重苦しい気分になるかもしれない」と書いています。この前の「祝福、祝福」ということばと引き換えに、ここではずっと「のろい、のろい」と繰り返されています。
祝福とのろいの、どちらを選ぶかと尋ねられたら、のろわれる道を選ぶと言う人はいないでしょう。けれども、何が読む者を重苦しい気持ちにするかというなら、果たして自分はモーセによって神がここで命じておられるように、神のことばを落ち度なく守ることができないのではないかとどこかで考えているからです。
また、そもそも神はご自分の民を愛しておられるのに、なぜ聞き従わない場合にのろわれると、これほど丁寧に、いや、しつこく語っておられるのかということが心に引っかかるのではないでしょうか。
確かに、読んでいて良い気分にはなりません。むしろ、こんな神さまは好きではないというか、好みではないと否定してしまうかもしれないのです。
けれども、何度か読んでいるうちに、ご自分の民に対する神の本気さを覚えるのです。「こうなってほしくない」と神は強く思っておられるということなのです。
このようにお語りになる神のお気持ちはどこにあるのでしょうか。
先読みになりますが、30章19節でモーセは民に、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」と語っています。これこそ、神の心をモーセが語っているということではないでしょうか。