Ⅱ歴代誌25章
昨日は月に一度の特養ホームの礼拝でメッセージを届ける日。いつもの方がいつもの席にお座りになっていると、なぜかホッとします。礼拝の後施設長さんから、ご自分が「百万人の福音」に連載しておられたエッセイなどを収めた本を頂戴しました。お友だちが本にしてくださったもので「非売品」。母のことや礼拝での「思いがけない」エピソードなど、私にとっても貴重な一冊で、とてもうれしかったです。
「こんなこともあったっけ!」 ちょっとだけ紹介しますね。
[先日もこんなことがありました。説教の導入部で「皆さん、きょう、朝ご飯に何を召し上がりましたか。? 何と何と何、と言うことができますか?」と問うと、信仰歴数十年のKさん、「え~と、信仰と希望と愛!」。どっと笑いが起こります。しかし珍妙な答えでも経験豊かな牧師さんは優しく受け止めてくださいます。「いいですねえ、私も毎朝いただきたい。]
この時はほんとうに愉快でした。そして恵まれ、教えられました。
アマツヤ王についての評価は「主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。」今なら、「ビミョー」ということでしょうか。
主の警告に素直に従って勝利を得たと思ったら、敵の神々を拝んだり、隣国との勝利にいい気になって兄弟国を戦いを交えて大敗北を喫したりするなどというのは、「全き心をもってではない」という主への信頼の不徹底さゆえのことのように思います。
ユダの諸王の評価の中では、「全き心」ということばが印象的です。「全き心」とは裏表のないとか心と行動が一致してということよりもむしろ、「神を信じる心」ということではないでしょうか。神の目にかなう心や行動を示すことのできる人などひとりもいません。
しかし、そのような者でも神を信じることはできるのです。「全き心」を持つことができるのです。