【[創世記 2:2〜3
神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。】
神が安息日の規定を与えた目的は、人が自分の肉のわざを止めて、完全にキリストを表現するためでした。
私たちがキリストによって完全に支配される時、そして、キリストが私たちの全てとなる時、初めて神は休むことができるのです。
私たちのからだが完全にあがなわれたからだとなって完全に神を表現することができるなら、神は初めて休む(安息する)ことができるのです。
それは私たちにとっても安息となります。
なぜなら肉から解放されて、走っても疲れないからだとなるからです。
つまり私たちが神の望んでいる御子のかたちと似姿になることによって、神は安息を得ることができるのです。
最初のアダムがエデンの園に置かれたのは、王なる祭司として、神の代理者として、地を支配するためでした。
このことが回復される時、神は安息されるのです。
このことを教えるのが安息日の制定でしたが、ユダヤ人たちはその意図を理解することができず、罪と死の律法としてしまったのです。
【[へブル人への手紙 4:9,10]
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。
神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。】
9節に安息日の休み(回復訳ではは安息日の安息)というフレーズがあります。
これは安息日の制定が真のの安息を啓示するものとなっていないという背景があったことを物語っています。
ユダヤ人は安息日を厳守することに終始し、そこに隠された安息を理解することができませんでした。
そのことを表す「しるし」が38年間の病人の癒しでした。
ユダヤ人たちは、癒された人に対して「今日は安息日で床を取り上げる事は許されていない」と言っただけではなく、イエス様を迫害し、殺そうとするようになったのです。
イエス様は彼らに対して言われました。「私の父は今に至るまで働いておられます。それで私も働いているのです。」(ヨハネ5:17)。
安息なき38年間の病人は、イスラエルそのものの喩えです。
神が第七日に休まれた(安息された)のは、神の御業が終わったからではなく、神が願っていたことが達成されたからです。
神の願いは人が地上で神ご自身を表現し代行することです。
これが実現される時に神は満足され、安息されるのです。
これが第七日です。
創世記2章1節から3節は神の包括的な出来事です。
第七日に神は休まれた(安息された)のですが、同時に、未だ完全に休まれてはいないのです。
神と人が共に安息することが重要です。
ですから、「安息日の休みは神の民のためにまだ残されています。」(ヘブル4:9)と書かれているのです。
「神の安息に入る人は神ご自身のわざを休まれたように自分のわざを休むのです。」(ヘブル4:10)と言われている所以です。
創世記2章1節から3節の重点は神の安息ということです。
神は第六日に人を創造されたことに満足されて、それを「非常に良かった」とされました。
そして、第七日には、「神が安息された」とありますが、しかし、それはまだ完全に成就していません。
ですから三一の神は今も働いておられるのです。
私たちが神の安息に入るためには自分のわざを休む必要があります。
自分のわざを休むためには、肉(たましいとからだ)によって生きるのではなく、完全に霊よって生きることが必要です。
私たちが御子のかたちと似姿に造り変えられるには、御霊の働きに頼るしかありません。
そして、御霊も御子もそのために執り成ししてくださっています。
これで、一旦、創世記一章の学びを終了します。