真理を求めるあなたに

聖書を紐解き御言葉の意味を読み解きながら真理を探っていきます

ルカの福音書23章①

2025-01-23 14:54:10 | ルカの福音書
【[ルカの福音書 23:1〜12]

集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」
そこでピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には、訴える理由が何も見つからない」と言った。
しかし彼らは、「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」と言い張った。 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。】
23章12節に「この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」とあります。
イエス・キリストとのかかわりを通して、それまて敵対していた二人が親しくなったというのは不思議なことですが、この世ではよくあることだという気がします。
敵対していた者同士が、共通の敵を目の前にして結託するということなのでしょう。
全て、この世に属する人間は(神によって新生していない者は)、自分の利益や利得でどのようなな態度にも豹変するものですね。
ルカの23:8~12の箇所はルカ独自の記事です。
ルカがヘロデとピラトのかかわりを記していることは、決して、興味本位からではありません。
驚くべきことに、イエス・キリストのすべての言葉と行為、あるいはそれによってもたらされる出来事はすべて旧約時代の預言の成就です。
その視点から、今回の箇所を味をってみたいと思います。
23:12にあるヘロデとピラトですが、ヘロでは、ローマ帝国の傀儡としてガリラヤの領地を支配した人物です。
またピラトはローマ帝国から使わされた行政長官総督と呼ばれた人物です。
この2人がなぜ敵対していたのか、その理由は記されていません。
互いに敵対していた両者が、イエス・キリストの存在によって、互いに親しくなったということがあるかによって書かれているだけです。
ここで「親しくなった」と訳されている言葉は、「フェロス」といって、「友」という意味です。
当時、ローマ皇帝によって遣わされる総督は皇帝に対する直接的な責任を負い、ピラトがキリストに関して行使したような最高の法的権限が与えられていたようです。
それはおそらく当時のユダヤ人支配というのは重い大変な一筋縄ではいかない仕事だったからです。
ルカ13:1に「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」という記述があります。
つまりこれは、ローマの兵士たちが、ガリラヤ人たちが聖所でいけにえをささげているときに、彼らを殺害したということを意味しています。
ピラトが聖なる町の中に、いきなりローマのやり方を持ち込んでことによってユダヤ人の反感を買ったようです。
難しいユダヤ人支配をゆだねられたピラトはユダヤ人たちを痛めつけることを喜びとしていたふしがあります。
このようなピラトのイメージと、イエスの裁判の時のピラトのイメージは相通じないような不釣り合いのような感じをうけます。
まるでイエス様の裁判の時にはユダヤ人に言われるがままに行動する意思のない存在のようです。
ピラトはもともと強硬的性格がありますが、ここではユダヤ当局のより強硬な行動に押されてしまっています。
しかし、そこには神の隠された計画があったですもし、ピラトが自分に与えられた権力を最大限に行使して、たとえユダヤ人に嫌われたとしても、自分の思う通りにしてイエスを無罪にしたとすれば、イエスは十字架にかかることはなかったはずです。
ところが、もし、そうなっていたとすれば、イエス様はメシアではなかったということになってしまいます。
神の御計画によれば、神から遣わされるメシアは苦しみを受けること、そして殺されることが定まっていました。
それまで互いに敵対していた勢力が、イエス様に対して、互いに和合するということが起こることは、旧約聖書で既に預言されていたのです。

そのことが預言されている箇所は詩篇の2篇です。

【[詩篇 2:1,2]
 なぜ 国々は騒ぎ立ち
 もろもろの国民は空しいことを企むのか。
 なぜ 地の王たちは立ち構え
 君主たちは相ともに集まるのか。
 主と 主に油注がれた者に対して。】

また、ルカの福音書23:10には、【祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。】とあります。

そもそも、祭司長たちはサドカイ派で、律法学者たちはパリサイ派でした。
両者、常に敵対していました。
サドカイ派の人々はエルサレム神殿を中心とする祭司級の裕福な上流階級です。
彼らは宗教的指導者であると同時に、政治的指導者でもあり、政治的混乱を招いて自分たちの立場を危うくすることを極端に恐れる者たちでした。
教理的な面においても、彼らはパリサイ派とは違って、「モーセ五書」に記された律法のみに権威を認め、そこに書かれていない死後の生命、霊魂の復活などの教理を認めていませんでした。
一方のパリサイ派の特徴は厳格な律法主義です。
先祖たちの教え(言い伝え)を大切にし、積み重ねによる伝統的聖書解釈を重んじていました。
パリサイ派は、非政治的団体でしたが、サドカイ派以上に民衆的基盤を持っていました。
しかしイエス様の宣教において最大の敵となつたのはこのパリサイ派の律法主義でした。
彼らの中に「ユダヤ人全体が律法を遵守するならば、メシアが来られる。まだメシアが来られないのは、ユダヤ人の中に律法を守らない者がいるからである。」ということを唱える者たちが現われました。
それがパリサイ派の神学となっていたのです。
立場を異にするサドカイ派とパリサイ派、それぞれに属する「祭司長たち」と「律法学者たち」が、結託して共に集って、ピラトの官邸の前で、イエスを激しく告発しているのです。
ヘロデとピラトがイエスの尋問を通して「親しく」なったように、サドカイ派とパリサイ派もイエスの死刑に向けた告発を通して「親しく」なっているのです。
ここに預言の成就が見られます。
全てを見通す神の目と神のご計画の確かさを見せられているようですね。