gooブログはじめました!震災から二年三ヶ月余り~震災前後の自然、風景、雲、写真、etc

震災後、何か後世に残すか?語り継ぐか?これから考えながら進まなければ、いけないのでは!

震災から三年経って!

2014-03-12 22:14:55 | 日記
  震災より、早三年!当時の記憶が、少しずつ薄れてきている様に感じています。私たちは、三月十一日だけは、家族、兄弟、親戚が集まり、当時の起こった事を、毎年語り続け、後世に伝えて行かなければ、成らないのでは!今回震災後の状況写真の投稿が最後になりました。四月十七日のフォトチャンネルには、載せておりますが、高田松原、キャピタル、タピック、防波堤、それぞれ、壊れるはずの無い物でしたが、すべてを津波が飲み込みました。でも私たちは、諦めず、前向きに、皆さんで復興のために、力合わせて進まなければなりません。頑張りましょう!

震災九日目、三月十九日

2013-09-28 22:01:19 | 日記
 三月十九日は、午前中は、遺体安置所を、二手に別れ探し廻りました。私と叔父さんは、海の方へ、義理の兄と、お父さんは山のほうへ、私たちは、一箇所なので、早めに終わり、高田の町の中を、探す事にし私だけ一人、二時間程、バス、タクシー、などの車を、探しました、何も、見つかりませんでした。しかし、義理の兄たちは、数箇所廻っているうちに、お母さんを見つけたそうです。私はそれとも知らず、街中を歩き、避難所に張り紙などをしたり、家に戻ったのは、夕方でした。皆さんに、何処へ行ってたの?といろいろ聞かれましたが、街中を探してた!。未だに見つかって居ない方々おりますが、母はある家族の車に乗せられ、乗せて下さった家族と共に、天国に旅立ちました。母は生前、神、仏様を拝んでおりましたので、御加護があったのでは?と自分なりに思っております。未だに信じられない出来事でした。

震災八日目、三月十八日

2013-09-22 07:55:25 | 日記
 三月十八日、午後から、何もしないで居るより、少しでも、足取り手がかりを探すため、高田の町を、探し歩きました。最初は、針灸の先生を尋ね、何時ごろ診療し、帰ったか?そうすると、十二時四十五分ごろ、タクシーに乗って、帰ったとのことでした。いつもなら、その後、スーパーに寄り買い物をし、三時過ぎのバスで戻るのが、いつものパターンでした、そこで、買い物に行った思うい、スーパーに行き、見たところ、余りにも、すさまじ過ぎて、言葉になりませんでした。その後バス乗り場、高田駅、タクシー会社周辺を、廻って見たのですが、何の手がかりもまく、戻って来ました、その後高田一中に避難所、が有りましたので、名前を探したり、探していますと書き、写真を貼りしました。またタクシー会社の方が、避難所に居ましたら、会って、情報を欲しかったので、体育でアナウンスをしてタクシー会社の人は居ないか?一時間位待っていたのですが、居ませんでした。高田第一中学校、校庭では、仮設住宅の建設も始まっていたし、体育館では避難所の方々に、食事の配膳をしていました。校舎の玄関には、避難者名簿、探しているかたの写真、名前などが、所狭しと、張られていました。

震災八日目、三月十八日

2013-09-21 21:31:32 | 日記
 今日も母親探しに午前中、米崎、矢作、数箇所の安置所を廻りました、がやはり見つかりませんでした、午後から、母が津波時、何処に居て?、どうしていたか?、その足取りを探せば、何らかの、手がかり、になるのは?と思い、手がかりを、探しはじめたました。最初は、震災当日は、針灸に行って居たようなので、そちらの方を尋ねてみました。店は、津波で流され、無かったのですが、避難所の方に様なので、当時の様子を聞いたのですが、針灸の後、タクシーで帰ったと聞き、タクシー会社と、買い物に行った、スーパーと、帰りはバスなので、バス会社、などが解り、順番さ探す事にしました。

震災六日目、三月十六日

2013-09-18 22:10:55 | 日記
 三月十六日、ひきつずき、母を探しに、安置所を廻る、米崎中、下矢作小、午前中行きましたが、進展は見られず、今後の見通しも、解らない!今後いつ対面出来るか、予定がたたない、との事でした。安置所の数も矢作の方に増えるらしい!とかで?次の日三月十七日も、行きましたが、対面出来ず、帰って来ました。生存者救出、道路確保、次の段階で、遺体収容が本格的に進み始め、対応が忙しくなって、きたようでいた。写真を三月十七日のを上げておきます。