旧・境界線型録

この世の「型」を矯めつ眇めつ眺めて、頭の型稽古をする極私的道場。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

継続の妙味。

2009年11月08日 | 楽体記
 わが家から車で三十分ほどの老親宅へ老父を迎えにいくと、「なんだ来てたのか、何しに来た」と老父がいう。なにもかにも貴様を捕縛しに来たのだと告げると、おお、そうか、ご苦労だった、で、何しに来た?と問う。やれ、先が思い遣られる。
 それでも、平素は外出しなくなってしまっているので、軽いドライブや起伏のあるわが家のアプローチをよろよろと歩くのは愉しそうでけっこうなことである。二足でも四足でもいいが、移動できるのが動物に生まれた喜びだろう。故あって動けなくなってしまう方の身の上を思えば、わが老父はまだ幸いである。来年はもう八十五歳で、本人は九十までいくと宣言しているから、ぜひともいってもらいたい。が、私は三百くらいまで目指す気なので、老父などまだまだ甘い。ドクター中松氏によれば人間は百四十くらいはいけるとのことだったが、私もギネス目指してダラダラと頑張りたい。
 老父を目にしていつも悔いるのは、なぜもっと早く内側重心に気がつかなかったのか、ということである。これだけは実に悔やまれる。あと二十年早く気がつき体感していれば、今も老父はチャッチャカ歩き回れたのではないかと思うと、気づくと気づかないの間にある暗黒の境界線の重さに愕然とせざるを得ない。
 ま、悔やんでも仕方ないし、私が三百歳までチャッチャカしているわけもなさそうだから良いが。
 本日も稽古後、某御大と一服しつつ、そんな話になった。
 「内側が体の負担を軽くすると知って欲しくてホームページとかでやってるんですけど、わからないんでしょうね」と言うと、「それは、なかなかわからないでしょう」と応じる。わからないことにはわかりようがないから如何ともしがたい。介護予防とか健康体操というのは、結局、今の状況のまままだ長らく推移するんだろうなと諦めるしかない。筋力が衰えると、覿面で体の支え棒が萎えてしまう。が、本来体の支え棒は骨である。骨の役割を筋肉が代行しているのが、普通の体だろうと私は経験的に考えている。これを語れば、ほうほう、そんなものか、なるほど、と仰有っていただくけれど、自体としてそうであると言う返答には接したことがない。切なくて自分の体感が異常なんだろうと思うしかないが、体感は現実のことなので、異常とも思えない。確かに異常なんだろうとは思うけど、それが異常なのではない。正常とは言えないけど、けっして変態ではない。そうあった方がお得なのは間違いないのだから、生存のインセンティブと言うものであるな。
 そうそう。本日は久しぶりに同期入門された先輩と顔を合わせて、愉しかった。近々メールを差し上げようかと思っていた矢先だったので、ほっと安堵した。
 ところで近頃は恒例の演武会が近いので、お稽古の皆さん、演武のリハーサルに忙しく、わがインチキ遊びの相手をしている暇がないので寂しい。「遊びましょ」と近寄ると、「貴様の相手をしてる暇はない」と突き放される。あぁ、捨てないでェとお宮さんのように縋りつくわけにもいかず、独り寂しく泣き濡れて鏡の前で三百六十度前回り後ろ回り遊びしたり、時々演武型を教えるふりして楽系遊びをコチョッとやって顰蹙を買ったり。私の場合、いつも演武練習は一くらいで残りの九は楽体なので、秋は切ない季節なのである。
 秋が過ぎれば、程なく冬の審査会。となると、また皆さん審査稽古に忙しく、楽々素浪人の遊び相手をしている暇などない。なんと哀しい身の上であることか。ああ、寒いほど独りぼっちだ、とか山椒魚が岩屋で零した科白の真似をしてみたり。今日は暖かめだったけど。
 しかし、武の修行は孤独なものである。相対で和やかにやっていても、体感は独りのもの。実際は、体感の共有こそが「技」に他ならないと今は思うんだが、共有しても共有できないのがまた「技」たる由縁なんだろうとも思う。珍妙だが、ここがまた面白く、やめられない。
 わかるわからない、できるできない、というのは続けることとはあまり関係ない。単純に続けることに意義があるなんて言えないけど、ああ、それを求めたいと思った時点で、明らかに要望がある。あるんだけど、できないとかわからないと思うと、継続を捨てたりする。継続と、できるわかるとは、実は無縁ではないか。できるわかる自分を期待していたのなら挫折するものだが、端からできるとかわかると思って始めることなどそんなに多くない。やっている内に、できそう、わかりそうなんて勘違いすると、できないわからない時の衝撃が大きいわけだが、そんな衝撃にはなんの価値もない。幻想の自分を壊すだけの衝撃であり、むしろ歓迎すべきものだろう。自分にがっかりしたなら継続しろ、というのがわがひとつの座右の銘といっても良い。自分にがっかりする、というのはすばらしいことである。できないわからない自分を知って初めて、自分がわかるわけだし。
 何はともあれ、演と武の間には暗黒の境界線を感じるが、演武会の成功を目指すのもひとつの社会活動としては意義あることだ。私は興味ないけど、常に最善を尽くして協力する。なんて感覚も、わかりにくいんだろうか。ま、いいか。これも楽悩だけど、楽体にしとこ。
この記事についてブログを書く
« 浮き考。 | トップ | 年寄りに免じて。 »
最近の画像もっと見る