文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

「春秋に義戦無し」とは名言で、国際戦争には一方が絶対に正義で他方が絶対に不正という場合はまずあり得ない。

2020年06月22日 13時48分12秒 | 全般

月刊誌正論今月号で読み残している箇所がたくさんあった。
今朝、平川祐弘さんの連載(長文である)を読んでいた時に、これは今の中国そのものだな、と思った箇所があった。
最後に平川さんがまとめて掲載している註の中に、私の思いが正鵠を射ていた事を証明する箇所があった。
本稿では、それらの箇所と、日本国民全員が知るべき箇所を抜粋してご紹介する。
平川さんの論文は日本国民のみならず世界中の人たちが必読である。
春秋に義戦なし
前文省略
日本が戦ったあの戦争は「反帝国主義的帝国主義」の戦争だったと私は考える。
世界史的には後発の「持たざる国」の先進の「持てる国」への挑戦だったともいえるが、アジアに植民地をもちはするが資源に乏しい黄色人種の一帝国日本の、アジアに植民地をもつ白人の豊かな大帝国連合の既成秩序への挑戦だったとも考える。
そして日本は敗れた。
「春秋に義戦無し」とは名言で、国際戦争には一方が絶対に正義で他方が絶対に不正という場合はまずあり得ない。
―そんな「大東亜」戦争と東京裁判について、いかなる見方が適当か。
私は戦争やそれに引き続く別次元での戦争であった東京裁判などについて、いろいろな局面を明確化するよう資料を引いて語りたい。
読者の理性にも感性にも働きかけることで、その資料の内在的な価値によって、おのずと結論が抽(ひ)き出されるようにしたい。
それで新しい歴史の視野を示すことができるかどうか。
外国人の読者がなんと言うであろうか、私はその反応にも期待している。
12月8日 
日本にとって12月8日に始まった「あの戦争」註1、とは何だったのか。
太平洋戦争か、それとも大東亜戦争か、あるいはそのいずれかに割り切ることが間違いなのか。
過去の大戦について、西洋本位でもなく日本本位でもない、よりバランスのとれた歴史上の位置づけを、インドなど第三国からの視点も含めることで、試みたい。
複眼で過去を振り返るのが、私のアプローチだが、もとより私論に過ぎない。
個人的な思い出もまじえさせていただく。 
1931(昭和6)年7月生まれの私は、小学校4年生の時、12月8日を迎えた。
1941(昭和16)年の師走の月曜の帝都の空は晴れていた。
朝7時のニュースで日本が米英と西太平洋で交戦状態にはいったことを知り、学校に向かった。
電車の中で向いに座った乗客の日本人の緊張した顔が美しく見えた。
「いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる」。
詩人高村光太郎がうたったそんな気分は子供心にも感じられた。
そしてその直後から戦争は「大東亜戦争」と呼ばれたのである。
日本軍の中国大陸における長期にわたる戦争には大義に欠ける面があった。
終わらないシナ事変に多くの人が嫌気を感じていた。
そして汪兆銘のように日本側に付く人がいただけに、蒋介石が抗日的であるのは背後に英米がいるからだと思われていた。
そんな認識だったからこそ、同じ戦争でも、シナ事変と違い、12月8日以後の日本は米英という真の敵との戦争であり、それはアジア解放のための大東亜戦争として大義名分を持ち得るかに思われたのである。
その時の国民感情は、
5年間我が日本に立ち籠めし 雲を払ひし大詔(たいせう)を読む  新しき修理固成(つくりかため)の時は来ぬ 有色の民に所得しめて 
の歌にもうかがわれる。
植民地帝国である白人列強を相手の戦争であるならば、感情的にすっきりしたことを日本海軍航空隊の市丸利之助司令官は歌に詠んだのである。
高村光太郎は緒戦の勝利に興奮した。  
ハワイに大艦隊を即刻滅ぼし  
マライ沖に沈まざる巨艦を沈め、  
岩とベトンと深謀遠慮の香港を降(くだ)し、  
マニラをたいらげて呂宋の昔にかへし、…  
鉄で固めたシンガポールをみりみり潰した

太平洋戦争か大東亜戦争か 
だが、日本の圧倒的優勢はそれまでだった。
1945(昭和20)年8月の敗戦。
そしてそれに引き続くアメリカ軍の日本占領。
しばらくすると「大東亜戦争」の名は消され「太平洋戦争」となった。
その変化の背後に占領軍の意向が働いていることは中学二年生にもわかった。
「太平洋戦争」の呼び方はアメリカ側でthe Pacific Warとか War in the Pacificと呼ぶからでもあるが、日本人に「大東亜戦争」Greater East Asia Warとそのままいわせておくと、日本が大東亜解放のために戦った、という義戦の面が表に出る。
それでは連合国側、特に植民地を戦前のまま維持したい諸国にとっては、都合が悪い。
それで「大東亜戦争」という用語の使用を禁じたのである。 
日本軍は南方諸地域で植民地支配者である白人列強を一度は打破した。
米英仏蘭の諸国は、傷つけられた権威を回復するためにも、現地人への見せしめのためにも、敗れた日本軍の将兵を戦争犯罪人に仕立てねばならなかった。
シンガポールを陥落させた山下奉文将軍を開戦記念日の12月7日に絞首刑に処すと判決し、マニラを陥落させた本間雅晴将軍を銃殺刑に処すとしたのは、罪名はなにであれ、復讐裁判の側面が露骨に出たといえよう。
その非はライシャワー博士なども認めている。
註2 
ローレンス・テイラー『将軍の裁判 マッカーサーの復讐』立風書房、1982、原題はA Trial of Generals。 
日本語版の裏表紙にあるライシャワーの言葉を抄すると、次の通り。……軍事法廷で裁かれた山下および本間と並んで、本書ではマッカーサー将軍も裁かれている。
二人の日本人将軍が、いずれも率直で、正直で、高貴でさえあったことが明らかにされている。
そしてマッカーサーについては、その二重人格の陰の部分が浮き彫りにされ、彼がいかに狭量で、もったいぶった、そして復譬心にとらわれた人間であったかが示されている。
本書では また、アメリカの正義(裁判)も裁かれているのである。
そして最終的に敗れ去ったのはアメリカの正義であったことを証明している。

南方各地で多くの日本人が処刑された間は、8月15日以後もまだ戦争は続いていたのである。
―そしてこの戦後の戦争で、一部日本人の心ない態度が表に出た。
本間中将の令嬢が助命運動に署名を求めて街頭に立った。
すると一新聞にそんな振舞に出た令嬢を非難する投書が出たのである。
この稿続く


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