以下は前章の続きである
東京裁判での狙いが外れ?
ソ連は拘束した関東軍の高級将校に東京裁判で「日本のソ連侵略計画」を証言させようとした。
77人の候補者リストから最終的に選ばれたのは関東軍参謀瀬島龍三中佐、関東軍参謀副長松村知勝少将、関東軍大陸鉄道隊長草葉辰巳中将の三人である。
草葉中将が証言する直前に服毒自殺するという痛ましい出来事があり、瀬島と松村の二人が昭和21年10月に証言した。
だが、日本が「対ソ攻勢作戦計画」を有し、その準備をしたこと(関特演など)を侵略を実行したことと同罪と見なすというソ連の主張は容れられなかった。
さらにソ連は第二陣として昭和22年秋、第3軍司令官村上啓作中将、満洲国総務長官武部六蔵、関東軍暗号課長松浦九州男の3人を東京裁判に引き出し日本の「侵略政策」を証言させようとした。
そのとき、細菌戦のため人体実験を行ったとする731部隊についても証言させようとも企図したが、これは不首尾に終わった。
米国が日本に引き揚げていた石井四郎中将ら731部隊関係者の戦犯免責を決めていたのでソ連の要求に応じなかったからである。
ソ連側がこのとき証人として用意していたのが川島清少将と柄沢十三夫少佐だったようだ。
川島は昭和16年3月から昭和18年3月まで2年間、731部隊の第4部(細菌製造)部長を務めた。
柄沢は川島の配下で製造課長だった。
ともに細菌戦研究の実情をよく知る立場にあった。
川島清の手記『蘇武の賦』によると、昭和22年6月、ハバロフスクからモスクワ近郊のクラスノゴルスク第27収容所へ空路移送されたという。
細菌戦関係者の12名と前記の村上啓作、武部六蔵、松浦九州男が一緒だった。
1ヵ月あまりしてから後者の三人だけが東京へ送られた。
結局、東京裁判に川島や柄沢を出廷させる企図が挫折したから、ソ連は新たに自前でハバロフスク裁判を企図したのに違いない。
この稿続く。
*こんなものを正しいとして大々的に或いは喜々として特集番組を作り日本及び日本国民を攻撃し続けるNHKの番組制作局の中枢に私が比喩するところのスメルジャコフたちがうじゃうじゃいることに疑問の余地はないだろう。このNHKの内部に居るスメルジャコフたちほど見下げ果てた連中もそうはいない。*