朝、月刊誌「正論」(780円)を読み進めてみた。産経新聞客員論説委員石川水穂氏の論文があった。
この論文もまた、事実を明らかにした論文が満載されている、この本が780円であることの値打ちを実証していた。
朝日新聞を購読していると言う事は、事実については何も分からず、論説委員たちの歪んだ思想を購読しているだけである事を痛感させる論文でもある。
朝日新聞とこれに同調して来た文化人たちは、日本を矮小化し続けてきた事は、もはや歴然たる事実である。
歪んだ思想ゆえだろうが、韓国、中国が行っている、ナチズム、ファシズムそのものの反日教育を見過ごし続けてきただけではなく、彼らが国連と米国を舞台にして、執拗に繰り広げている反日プロパガンダに、捏造記事を量産して加担して来た。
南京大虐殺という中国の捏造には、本多勝一などという戦後最低と言っても全く過言ではない人間を大物記者に仕立て上げ、
中国共産党からの招待旅行の罠にも気づかず、いそいそと出向かせ、手渡された資料どおりの事を(本人が藤岡東大教授との週刊誌上での公開対談で、その通りである事を認めている)「中国の旅」などという大特集を連載して、国際社会に真実であるかのごとくに誤認させた。
彼の連載記事の題名を確認しようと調べたら、以下の論文が出て来た。筆者の事を調べてみれば、実に誇らしい事に私の母校である仙台二高出身で東北大学文学部卒業者だった。
冒頭に続くはずだった論説は後日として、先輩の本物の論文をご紹介する。http://ironna.jp/article/769からである。
阿羅健一(近現代史研究家)
昭和19(1944)年、仙台市生まれ。仙台二高、東北大学文学部卒。近現代史研究家。
見出し以外の文中強調は私。
日本人の常識と相容れない
ようやく朝日新聞が慰安婦強制連行の記事を取り消した。ここに至るまでに32年かかり、よく居直りつづけたと感心してしまうが、32年目で取り消したのなら、43年前の報道も取り消せるのではないかと私は考える。43年前、つまりは昭和46年。言うまでもなく本多勝一記者が執筆した「中国の旅」のことである。
「中国の旅」は昭和46年8月から12月まで朝日新聞に連載された。中国人が戦争中の日本軍を語る形を取ったルポルタージュで、毎回、残虐で非人道的な日本軍が語られた。これほど残虐で猟奇的なことを新聞が掲載してよいのかと感じるほどだったから、その残虐さと猟奇さに度肝を抜かれた日本人はいただろう。
しかし、語られている日本軍の行為は日本人の感覚からは考えられないもので、常識的な日本人なら躊躇なく疑うものだ。もし日本軍の実情を知っている人なら言下に打ち消すだろうし、日本の歴史に照らしあわせれば、これも直ちに否定できる。「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(「朝日新聞社史」)というように、朝日新聞の読者ですら拒否したのである。
社内からも批判の声が上がった。「中国の旅」は4部に分けて連載され、残虐で非人道的な話の圧巻はそのうちの「南京事件」だが、当時従軍した記者たちが取材した南京と、「中国の旅」に書かれている南京とはまったく違っていたからである。
こんなことから、連載をまともに受け取る日本人などいないだろうと考えられたが、実際は多くの日本人が受け入れた。連載から半年後に単行本となり、やがて学校の副読本として使われだし、しかも文部省はそれに反対しなかった。それから十数年して南京に虐殺記念館が建てられると、献花する政治家が次々と現れた。同じように、国交回復のとき話題にもならなかった南京事件を中華人民共和国が言いだすと、外務省は反論することもなく認めた。なぜ受け入れたのですかと彼らに問えば、朝日新聞に掲載されたからと答えるだろう。常識から判断できるのにしないで朝日新聞を信ずる。なぜそうするか不思議なのだが、それほど朝日新聞が信じられていたことになる。
「中国の旅」の虚偽を示す記録の数々
改めて「中国の旅」が虚偽に満ちた内容であることを示す。
「南京事件」にしぼると、その冒頭で南京に攻め入った日本軍はこう記述されている。
「日本軍がなだれこむ。大混乱の群集や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」
この記述が文字通りの虚偽であることはあまたの事実が示している。
日本軍が南京城内に入ったのは昭和12年12月13日で、城内の第三国人を保護するため、翌日には日本の外交官も入った。外交官の名は福田篤泰といい、戦後、衆議院議員となり、総務庁長官などを務めた人である。南京市民でごったがえす中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補はこう証言している。
「街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない」(『一億人の昭和史』毎日新聞社)
南京市の中心には日本の新聞社や通信社の支局があった。同盟通信(現在の共同通信と時事通信)の従軍記者である前田雄二は15日に城内に入った。前田雄二記者は支局を拠点に取材をするのだが、そのときの支局周辺の様子をこう記述している。
「まだ店は閉じたままだが、多くの生活が生き残り、平和は息を吹き返していた」(『戦争の流れの中に』)
死体もなければ、血にもおおわれていない。南京はまったくの落ち着いた街だった。
中国人の話だけで成り立つ「中国の旅」からすると、日本人の証言では不十分とされそうなので、第三国人の証言をあげる。
南京には数十人の第三国人がいて、一部は南京安全区国際委員会を作って南京市民の保護に当たった。彼らは南京にやってきた日本の外交官に手紙や要望書を出すが、福田領事官補が南京に入った14日、さっそく手紙が出された。その手紙第1号の冒頭はこう書かれている。
「謹啓 私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」(『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』)
日本軍が南京市民を殺戮することなどなかったのである。
第三国人の証拠を持ち出すまでもない。14日の南京の中心の様子を朝日新聞がこう報道している。
「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(『東京朝日新聞 十二月十六日』)
死体と血におおわれた地獄というのはまったくの虚偽なのである。
軍用犬を放したという記述にいたっては腹を抱えて笑うしかない。軍用犬は、最前線と後方の連絡に使われるが、偵察に使ったり、傷兵を救護したり、軍需品の運搬にも使う。そのため飼育され、訓練が繰り返され、人間を食べることなどありえない。
虚偽の記述は冒頭で終わるわけでない。続いて「川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった」「どこへ行っても空気は死臭で充満していました」といった死の世界の描写が続く。
「中国の旅」とは、冒頭からこのような虚偽と噴飯ものに溢れ、それが最後まで続くものであった。
この稿続く。